『男性・女性』  ゴダールはどうして退屈なのだろうと考えてみた

実は、自分は、『勝手にしやがれ』けっこう好きなんですよ。そして『勝手にしやがれ』と『きちがいピエロ』以外のゴダールの映画、全然楽しめないのです。

映画監督の作品リストの中から2本だけ好きで、後はどうでもいいやってことは、そんなに珍しいことでもないと思うのですが、

ゴダールの場合異常だと思わせるのは、上に挙げた2本以外は、見ていて非常に苦痛であるという点です。単にどうでもいいというのではなくて、見ていて苦痛なのですね。

この見ていて苦痛な感じを、「ゴダールはカス!ゴダールを褒める奴もカス!」という風に攻撃的な態度に切換えてもいいのかもしれませんが、
ただしかし、一応世間の大勢の人が褒めているんだし、それだけ大勢の人たちが褒めているのだったら、何か理由があるのかも知れない、
自分は、コンピューターのプログラミングも物理学も出来ないのだから、
ゴダールの映画も、もしかすると、自分の能力を超えたものかもしれない、
と、素直に思ってみるほど自分は素直な人間では有りませんが、一応そのように仮説を立ててゴダールの見て見ることにしようと、思い立ちました。

自分の映画の見方は、一回目は、なるだけ余計な事を考えないように見て、その時の印象感想をモニター意見として活用しつつ
二回目には、イロイロチェックしながら、しつこく見ていくのが決まりなんですが、

『男性・女性』の一回目の感想、印象はというと、
「つまらない、退屈」を通り越して、見るのが苦痛であるというもの。

あまりの苦痛に、途中までしか見ることが出来なかった。


そして、この苦痛ぶりというのは逆に人を不快にさせる点において優秀であるのではなかろうか?と考えたのです。

自分は、車や電車の窓の光景見ているだけで何時間も過ごせる人間なんですが、
自分は、ただ景色見ているだけで、家の窓から外見ているだけで時間がつぶせるような人間で、外国で汽車やバスで移動する時なんか、うたた寝するのがもったいないと考えているような人間なんですが、




それでも、いや、もしかすると、それゆえなのかもしれませんが、ゴダールは見ていて苦痛なのです。

きっとある、きっと何かがあるに違いない、そういう事を見つけようとしばらく不毛な、もしかすると有益かもしれない努力をしてみるのですが、


このシーン、もしかすると有名な場面なのかもしれません。ジャン・ピエール・レオーがタバコをポンと口に放り込むシーン。

だから何なんだ?というシーンですが、それ以外には、
恐ろしいことに、ここでこのままカメラが固定されて2分半ぶっ通しで上滑りするような政治の話を一方的に彼が話すという、

この「画面にくいつきが悪い」とか「上滑りする」と自分が感じることが、もしかすると、私が既存の映画セオリーに毒されているのかもしれませんが、それにしても退屈を通り越して苦痛なのですね。

2分半の間で、何か面白い事をやって見せるとしたら、タバコをポンとくわえる芸だけなんですね。
そんな芸で、2分半も時間もたせるんですか?マジで?

表象批評的に見たところで、この2分半の画面、ほとんど何も映っていません。
主役の男優、髪型、着ているジャケットの質感、それ以外には背景はほとんど何もなし。
窓も無いから、画面を動くものもなし。

ジャン・ピエール・レオー、自分みたいな人に対して何かしゃべっているわけでも無いでしょうから、疑似体験としての対話は自分のような観客の間では成り立っていないはずです。

窓の外見てるだけで2時間半くらい簡単に時間がつぶせる自分のような人間にとって、この共感を排除した一方的なしょうもない政治的主張、そしてその人物を完全な第三者として眺める事の出来ない正面からのアップ、そして窓の外の光景に逃げる事の出来ない画面上の視覚刺激の少なさ、
言い訳程度にジャンピエールレオーがやって見せる、タバコを口に投げ込む芸。

こういう流れで見せられると、苦痛なんですよね。
「おまえ、俺にそのしょーもないタバコ芸とクソみたいな政治話だけで2分半も画面見せようってのか?」

そう感じるわけです。これって、退屈とかつまらないを通り越して、苦痛というのが正しいのではないでしょうか?


逆に、この画面に窓や背景という視線の逃げ道が出来ると、一気にそっちに目が行く事になります。

60年代おしゃれー、フランスおしゃれー、そういう思い込み観客にはありますから、今までの苦痛にならされた目には、そういう60年代のパリのこまごましたインテリアや雑貨に目がいく事になるのですが、
渋谷で単館公開して帰りにロフトとか東急ハンズで買い物したくなるよな、と商売人的な立場で考えてしまいます。

まあ、自分には原発の動かし方もロケットの飛ばし方も分らないので、ついでにゴダールの映画が分らなくてもかまわないのですけれども、
ただ、不愉快なのは、東大の先生が褒めるからゴダールって最高とか、東大の先生の褒めるゴダールを楽しめるわたしって最高、そんな風に背伸びして映画見た帰りに60年代のパリっぽい雑貨を買ってかえろー、そういう人たちは、かなりの割合なのは、自分の経験上間違いないですから、
ゴダールの映画ってある種の人の恨みかうの当たり前なんですよ。




しかし、女の子の画面映り、ゴダールの映画って大抵きれいなんですよね、いや、きれいという言い方はニューシネマ以前のハリウッドの撮影照明技術というべきで、ゴダールの女優達の場合は、可愛いというべきなのかもしれません。

本来ハンサムでもないビートルズのスナップショットがかっこいいというのと似ているように思われます。

無理せず、自然体で、なるべく即興で地の部分の可愛らしさを出させるように演出して、

でも、そういうのって、70年代以降の日本のアイドル戦略と大差ないでしょ?

カメラの撮影技術が高いって言っても、それだけで映画の価値が決まるわけでもないですし。



さっき見て分った事なんですが、ゴダールの映画にちょくちょく挿入される、画面いっぱいの字幕。
これ、サイレント映画で昔やっていたこと。
トーキーになって、こういう字幕が必要なくなったときに、映画って画面の進行方向で物語を語る技法が一気に進展するんですが、
こういう画面ちょくちょく挟む時点で、ゴダールってそういう画面の方向についての技法を放棄しているのだろうな、と。

で、おかしい事に、サイレント映画の字幕画面と違って、やっぱり実写の場面に喰いつきが悪く上滑りしている。

何か吉田戦車とかのシュールなギャグみたいなものだと思うんですよ。