ラリった表題ですが、これ、ビートルズの「アイ・アム・ザ・ウォーラス」のもじりです。あの曲作った時、ジョンレノンはラリっていましたけれど。
スピルバーグを語るには絶対に避けて通れない『E.T.』ですが、
よくよく考えてみると、『E.T.』ってわけ分らない点多いでしょう?
一番気になるのが、なんで死んだのにE.T.が生き返るの?ってところなんですが、
それについて、映画は全く説明しないんですよ。おそらく、説明しなくてもいい、むしろ説明しない方がいい、と考えていたのでしょう、スピルバーグは。
「だって、自転車で空飛ぶ宇宙人やんか、一回くらい生き返っても不思議ないわな」
多分、これが、一番模範的な説明でしょう。
そして、この模範解答が受け入れられないという人は、たぶんスピルバーグの映画に頻繁に見られる、当事者目線の物語進行が、ことごとく受け入れられないのではないでしょうか。
「なんで、タコ・マシーンに乗って宇宙人が攻めてくるんじゃ?」とか、そういう話、議論してもしょうがないですよ。そういう現場の当事者になったと仮定すると、「なんで?」じゃなくてして「どうしよう?」という態度で接するしかないわけです。
観客の資質として、素直に物語を受け入れられるかどうなのか、が問われているだけであり、
別にそういう当事者目線の暑苦しい物語展開が嫌いだというなら、そういう映画嫌えばすむ話なんですが、
ただし、この『E.T.』には、観客に当事者目線を受け入れさせるための、多くの技巧が凝らされており、
その結果大概の観客は、『E.T.』好きなんですね。
ちなみに、自分は全く感動しない、泣けもしないし、泣いてる奴がなんで泣いてるのかも理解できないのですが、
この映画、かなり好きです。
洋画の場合、物語は→の方向に流れます。
そして、観客の分身である主人公はその→の流れに沿って行動します。
以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
異星人って人類にとって分けわかんない存在ですから、
異星人と地球人の遭遇する場面では、
地球人のほうに感情移入し、 地球人→と動き、異星人 ←とそれぞれが動くと予想されると思いますが、
スピルバーグは天才と言っていいのかどうか自分には分りませんが、カットをつないでいく思考に於いて常人でない事は確かです。
以下、キャプチャー画像をどうぞ。
セオリーどおり、宇宙船が着陸してハッチが開く時には、←側に宇宙人の歩く方向が設定されています。
ただ、一人地球に居残る事になる宇宙人は植物学者で、杉の葉に興味を持ち、
杉の木立の中を一人で散策します。
この時、E.T.の向かう方向が → と逆になっています。
他の乗組員が、おっかなびっくり地上を探索しているのに、彼一人だけ、杉の木立に魅入られたように歩いているわけです。
大きな杉の樹のカットが入りますが、それは、E.T.目線の主観カットとでも言うべき、非常に低い位置からカメラが樹幹の方を向いています。
始まりのところで、既に宇宙人を二つに分けて、その内の居残る方に観客の共感をひきつけようと、物語が始まります。
そして、その宇宙人と遭遇する地球人のほうはといいますと、
宇宙人のほうが ←と歩いてきているのだから、
地球人のほうは、→と歩いてくるのですが、
その様子が、これでは、
観客は、誰一人、地球人の大人には共感できないと思います。こいつら顔映っていないですから、映画文法的には、ゾンビか死人と同じ意味です。
本来共感できないはずのE.T.を画面に登場させておきながら、本来共感できるはずの地球人に絶対に共感できない印象操作をすることで、
観客をE.T.の目線にぐいぐいと誘導していくという手法です。
そして、E.T.では、映画の終盤になるまで、大人は母親一人を除いて、顔が映りません。
どんだけ大人を信用していない映画だよ、ってなもんで、スピルバーグの精神の非常にブラックな面がビリビリこちらの心に伝導してきます。
観客の立場に近い人、観客が感情移入しやすい人が →と動き、
観客にとって異質な人が ←と動くのが、映画のセオリーというものですから、
E.T.にヒトが接近を試みる時は、ヒトが→向きに動きます。
人類とE.T.の第二回目の接近場面ですが、
エリオットの進行方向は、さっきの地球人と同じです。
なんかいるってことでエリオット少年、家に戻ってきますと、兄ちゃんの友だちがノリノリで、そのコヨーテか何かを捕まえに行こうとします。
まず、ダーっと、→に動いて台所の包丁を二つとり、それから←の方向に画面から消えます。
その後ろをママが、「ナイフは危ない」と追っかける。
画面全体の流れに着目していますと、いわくありげな小道具って目立つように仕組まれているわけです。
それからさっきのエリオット一人の時と同じ構図になりますが、
この構図に至るまでに、 → ← → とジグザグに移動していますから、
エリオット少年一人の時とは全然違って、すっきりしない結末になるだろうと観客は感じます。
案の定、ナイフなんか持ってくるような純真でない連中はE.T.に遭遇する事はできません。
そして、あきらめきれないエリオット少年は、夜遅く一人でE.T.を探しに行きますが、その時の歩く向きが
←と逆向きです。
周囲の誰もが信じてくれない。一人ぼっちで地球に取り残されたE.T.ほど深刻ではありませんが、ある意味エリオットも一人ぼっちです。
それ故、逆境ポジションの ←なのでしょう。
そして、地球人と異星人の遭遇シーンは、こうなります。
最初にエリオットのアップ、つまりE.T.目線です。
そして、二者が遭遇する時には、どちらが観客目線でどちらが客体であるかは、問題とされていません。共に平等な立場として、中央アップ画面で提示されています。
こうやって、観客に、エリオット=E.T. という図式を受け入れさせていくのが、この映画の技法です。
こういう風に演出と編集がなされていますから、その後のエリオットとE.T.の一体化する展開は、観客にはワリにすんなりと受け入れられるのでしょう。
その後、ゴミ箱をあさっていたらしいE.T.に食べ物を与えようと、マーブルチョコレートを森に巻いておきましたら、それに応えるように、夜な夜な E.T.がたずねてきます。
マーブルチョコが切っ掛けで、戻ってくるというのは、
『ヘンゼルとグレーテル』みたいな話ですし、森というのも中世メルヘンの世界のようであります。
こういうのは、西洋人の心の奥にある世界なのでしょう。
そして、マーブルチョコに釣られるように、E.T.が家の奥に入ってきますが、
その時のE.T.の進行方向は
←ですが、
気がついたら、エリオットを出し抜いて、 → 側にポジションチェンジしています。
ポジションチェンジする事で、E.T.が一気にエリオットの心の奥にまで入り込んだことを示しています。
映画に於いては、画面上の立ち位置と人物の心理は非常に高い相関関係を持っています。
画面の向かって左側は、主人公の心の内側と対応しており、そこに入り込まれたという事は、もう心をつかまれたということです。
その点に於いては、映画とは通常考えられているのとは違い、ものすごく縛りの多い様式化されたものなのです
なんという野蛮なお約束事!という風に思えるのですが、意外なくらい、このお約束事は観客に気づかれていません。にもかかわらず、観客の心理には相当な効果を与えています。
いや、にもかかわらずではなく、気づかれていないからこそ、大きな効果があるようです。
E.T.がエリオットの心の奥に入り込んだのですから、もうE.T.の方はやりたい放題。
手でサインを送りあって同調すると、一気にシンクロしてしまいます。
その後、E.T.の疲労にシンクロしてエリオット少年はすぐに寝てしまいます。
その後、ある意味で、エリオット少年は、E.T.のエージェントとして動く事になります。
ここまでで、映画は30分経過しています。
『ジョーズ』の時もB級テーマを扱っていながら上映時間が二時間以上とか、信じられないくらいの長さですが、『E.T.』の場合も、なんでこの映画こんなに上映時間長いのかと疑問に思ったんですが、
エリオット少年とE.T.がシンクロするまでの説明をこれだけの時間かけてやっているわけです。
そして、この二人のシンクロ成立の過程のなかで、E.T.の目線とエリオットの目線が、混線した状態で観客に提示されますので、われわれは、地球人と宇宙人の友情の成立をすんなりと受け入れることが出来るし、エリオットにもE.T.にも感情移入できるようになっています。
つまり、この回の表題どおりの感覚に観客は魔法をかけられたみたいに陥っているのですね。
スピルバーグの映画は当事者目線で、細かい設定をことごとく無視しているのですが、その当事者目線を成立させる為に、これだけ工夫がなされているのですから、
すんなりこの当事者目線の物語に乗ってしまうほうが、勝ち組だろ、と自分は思います。