突撃 一体あなたたちは誰と戦っているのだ?


以下で使用する −−><−−等の記号、ポジティブポジション等の用語は、自分が勝手に考案したものですから、意味分らないという場合は、こちらをまずどうぞ……「映画の進行方向」


戦争映画って、敵と味方を右と左サイドに割り振って、それぞれあらそわさせるのですが、なんでそうしないといけないかと言うと、
登場人物が多くて、一々顔覚えていられないから、
味方は −−>、敵は<−−と決めておくんです。
そして勝利が近づくにつれ、画面は−−>の方向に進むのですが、

自分は、映画が、このような構造を持っているのは、映画の発展が第一次世界大戦第二次世界大戦のプロパガンダ映像によってなされたからだろうという大胆な仮説を持っており、それについてこのブログの中で意見と自分なりの映画の味方について書いているのですが、


プロパガンダ映像と違って、どうも実際の戦場というのは、誰が敵か味方かがよく分からないのではないだろうか?それが証拠に味方の誤爆誤射で死ぬ兵士が相当にいるらしい、
そして、それが戦争のリアルな側面だとしたら、リアルな戦争映画を作ろうとすると、敵が右側なのか左側なのか、味方はどちら側なのかが分らないものになるのかもしれません。



第一次世界大戦塹壕戦を描いたキューブリック監督の『突撃』ですが、
フランス軍とドイツ軍の物語なのですが、
ドイツ軍が出てきません。ただフランス軍の様子だけが描写されます。


アホな将軍のアホな命令に従って無謀な突撃を行い、失敗すると言う物語ですが、

アホな将軍が陣地から指令を出す時の向きが

−−>

そして大佐のカークダグラスが、部下を駆り立てるのが

−−>の方向

にもかかわらず、突撃は <−−とネガティブな方向に向けて行われる。

上官と兵士の方向が逆ならば、敵軍が出てきた時にどの方向をとるべきかで混乱が生ずると思われるのですが、
都合のいいことにドイツ軍は出てきません。
同じ方向を向いているものは友軍であり、違う方向を向いているものは敵軍であると見ている側は感じますから、
仮にドイツ軍とフランス軍の将軍が同じ方向で画面に捉えられるなら、フランス軍の将軍は敵軍に内通しているイメージが生じてしまいます。

この『突撃』は、敵軍を華々しく蹴散らす映画でも、敵軍の砲火に散華する映画でもありません。
この映画は、上司と部下の戦争、不合理な社会システムと生身の人間の戦争を描いていると言えるわけです。


そして、日本人にはなじみの薄い第一次世界大戦ですが、
第二次の時と違い機動力を確保する飛行機車両がほとんどなかったこと、そして狭い範囲に何百キロも塹壕を両陣営が掘りあって、そこに張り付いていたことから、
前線と後方の距離が近くて、休日ごとに自国領内の酒場で息抜きが出来るという側面がありました。

戦場=太平洋で玉砕 というイメージに凝り固まってしまっている日本人から見ると、
第一次世界大戦の兵士の生活と言うのは佐渡金山あたりの労働者のそれとあまり違いないものに思えるかもしれません。

前線と後方が隣接しているこの戦争の性格から、
司令部としての貴族の邸宅が何度も映ります。

キューブリックは、『バリーリンドン』や『2001年宇宙の旅』から考えるに、バロックとかロココのヨーロッパ装飾が相当お好みのようですが、
この『突撃』の中でも、フランス貴族の邸宅の様が細かく描写されています。
それが戦場の粗野さと表裏一体なのですね。

そして、戦場でもこんな貴族趣味を引きずっているのですから、将軍クラスの人間関係なんて、社交界のノリのまんまのナアナアの狭い社会です。
そういう貴族社会が末端の労働者農民の兵士の事まじめに考えている訳ないんで、
作戦失敗の責任をテキトーにそういう兵士に擦り付けて処刑してしまいます。


キューブリックもカークダグラスもアメリカ人ですから、さらにいうとユダヤ系ですから、こういう階級社会に反吐が出るような思いだったと思いますし、
カトリックがそういう社会を支えていることにも露骨に批判して見せます。
神父が露骨に 敵サイドの <−−向きに配置されています。


戦争映画でありながら、敵軍もなく、味方同士でなにやってんだ一体!という映画でありますけれど、

最後の最後になって、戦争映画的な −−><−−の場面が現れます。

さっき述べたとおり、第一次世界大戦は、前線と後方の距離が近接しており、
休暇になると、大砲の弾の届かない自国領内に戻って兵士は憂さ晴らしをしていたのですが、

その酒場でフランス軍兵士が憂さ晴らしをするシーンです。
そこでの出し物は、ドイツ娘の唄です。

生きるか死ぬかもしれない戦場生活でテンションあがっていますから、兵士達の態度は粗野そのもの、
ドイツ娘に対して、脱げ、やらせろ、の類の野次が飛び交います。



フランス軍兵士の向きは、 すべて<−−

それに対し


ドイツ娘は−−>の方に向けて歌います。

その唄に、兵士達は感じ入り涙を流し始め、理解できないドイツ語の唄に対し、ハミングで一緒に歌い始めます。



映画は、その画面の方向で、製作サイドの価値観が示されており、観客はその価値観にサブリミナル的に晒される事になるので、一種の心理操作なのですが、

この戦争の敵は誰なのか、この戦争において正義はどこにあったのか、
最後の酒場のシーンの方向から、この『突撃』が観客の心をどの方向に操作しようとしているのかが、ラストの場面でよく分かると思います。