太陽の帝国

女の子ってどんなに若くても、13歳くらいでも、大人の男に求められるようになれば、即大人になれます。
大人になるというのは、別に子供を生むとか、母親になるとかそういう生物学的見地のことでなく、
社会的に存在価値が認められると言う事です。

それと比べると、男の子の方は大変で、筋力知力を高め、周囲の大人たちから、大人の仲間入りしてもいい能力を持っていると認められなくてはいけません。
こういう事は一夜にして成し遂げられるものではなく、根性努力でコツコツと達成していかなくてはならない類のものです。

ある種の女の子だったら13歳で大人に成れてしまうのに、男の子だったら20になってもその扱いは半人前、そんなのがこの世の中ですし、
法的に結婚が許可される年齢が女のこの方が2歳早いというのも、そんなことを根拠にしているのでしょう。

それから、社会が複雑になるに従って男の子が一人前の大人になる為にはより長い年月が必要となるのに対して、女の子が一人前の女になる事に関しては栄養事情の向上に伴ってより短い年月しか必要とされなくなってきています。

このアンバランスさが、男の子にとってのいきづらさなのかもしれません。そして、それゆえ宮崎駿の作品の主人公はことごとく女の子なのかもしれません。

それはいいとして、
一足飛びに大人になりたい、そんな風にうずうずしている子供を描くには、もしくはそんな風に悶々としている観客を喜ばせるには、
女の子には妊娠させてみたらいい、売春婦でもやらせたらいい、これが一番手っ取り早い女の子を大人の世界に導く方法です。

それに対し、男の子の場合は、けっこう難しいんですが、それでも一足飛びに大人になる男の子を描くには、
たぶん、おそらく、その男の子を戦場に放り込めばいいのではないか、そこで生き延びる事が出来るのなら、どんなにケチくさい了見の大人でも、その男の子が大人の能力を持っていると見做さざるを得ないのではないでしょうか。

そんな訳で、クリスチャン・ベイルのデビュー作『太陽の帝国』ですが、泣く子も黙るスピルバーグ監督、高松宮殿下記念賞受賞のストッパード脚本、原作はJGバラード、更には中国が始めてアメリカに映画撮影ロケ地を提供したという、伝説になって当然な条件をこれだけ備えておきながら、今ひとつ有名で無い映画です。
ちなみにいうと、この作品本来デヴィッド・リーンが監督するはずだったとか。


当時13歳のクリスチャンベイルが、戦前の上海在住のボンボンの役なんですが、太平洋戦争勃発と共に連合軍側の民間人は収容所送り。
そしてその混乱のさなか、彼は両親とも離れ離れになり、マルコビッチ演じる小悪党と共に収容所入りします。

それまで温室育ちだった少年が、とにかく生きることに必死で、小悪党マルコビッチを尊敬すべき先輩として模倣し、死が日常的な戦時下の収容所生活に過剰適応していきます。

収容所に適応しすぎて、つらいとか両親がいなくてさびしいとか、そういうこと全然思わなくて、やたら元気に走り回ったり、収容所の監視にゴマすって便宜をはかってもらったりします。

この映画の原作、『太陽の帝国』はJGバラードの実体験に大方基づいたもので、実際彼自身ものすごく面白おかしく収容所生活を送ったそうです。

そんな少年が、もうすぐ戦争が終わろうとしている頃、収容所を攻撃するアメリカ軍機を目の当たりにして喝采するシーンですが、
スピルバーグは小説を読んだ時、このシーンが目頭に浮かんで、「これはいい映画になる」と確信したそうです。
いわば、このアメリカ軍の襲来を軸として映画ができていったと言う事のなのですが、


その襲来の前段として、日本軍機の神風特攻隊出陣式が描かれます。


太陽の帝国』とは大日本帝国のことだけでなく、収容所という特殊環境下で大人たちが元気をなくした中で好き勝手に振舞えた楽しかった日々、そういう意味なのでしょう。
まあ、そんな、まかり間違った輝かしい日々にも、日本が敗れることで終末が訪れる事になるのですが。

以下で使用する −−><−−等の記号、ポジティブポジション等の用語は、自分が勝手に考案したものですから、意味分らないという場合は、こちらをまずどうぞ……「映画の進行方向」



落日の帝国を表すように 飛行機は <−−方向に飛んで行き、
そして

撃ち落とされます。



誰がどうやって撃ち落としたのか説明はされませんが、
翌日、
米軍機が、−−>の方向で、高速で飛び込んできます。

さっきの日本軍機の飛ぶ様が、恐ろしくゆったりしていたのと対照的に、米軍機の速度はひたすら速い。


「ウァーォ、大空のキャデラック!」

戦争映画ですから、無論米軍機は、日本軍機と逆の方向から突っ込んできます。


スピルバーグが原作小説を読んだ時に、「これは映画になる」と確信したのが、この少年と操縦士の邂逅場面。

クリスチャンベイルの画面は −−> 方向に流れていくが、


その流れは この−−>方向に500キロ以上の速度で飛んでいく飛行機の操縦士の目線を模したもの。


スピルバーグはアメリカ人視点で物語をまとめてしまったから、焦点がぼやけてしまったのかもしれないけれど、
この物語、本来イギリス人の視点で語られていたものなんですね。

植民地で威張って、格式重んじていたヨーロッパ人が日本人にとっ捕まって、それでことごとく自信を失っていく。
そんな中でも、チンピラみたいなアメリカ人は、最後まで容器で明るくて、主人公の少年はそっちの方に魅かれて行き、イギリス人の大人から、「お前アメリカ人みたいになっちまったな」と嘆かれる。
まあ、それはそんなんだけど、やっぱアメリカっていいよな、という事を、周囲のアメリカ人や差し入れられるアメリカの雑誌から少年は感じ取るのですが、

そういうイギリスのプライドが崩れた事に対する苦い思いについては、アメリカ人のスピルバーグ、あんまり同情していないです。
そこに話の力点置いていない。

本来、イギリス人の少年と操縦士の邂逅って、イギリス人側から見ると、苦いものなんですけれど、
スピルバークの映像にジョン・ウイリアムスの音楽がかぶさると、単なるロックスターとファンの邂逅にしか見えないですね。


しかし、この映画の本来のクライマックスは、ここに続く場面です。
ここに続く場面に関しては、原作に手直しが加えられており、明らかにレベルアップしています。
脚本の段階で、そうとう考え抜かれている事だとは思うんですが、

この場面すばらしいんですよ。



彼の保護者代わりのお医者さんが、クリスチャンベイルに駆け寄る。
「あぶないやろ、こんなとこいたら死んでまうで」

たとえ狙い撃ちにされているのが日本兵ばかりとはいえ、人が死んでんですから、
大空のキャデラック万歳!とか言っているのっておかしいんですけれど、
それだけでなくて、流れ弾に当たりかねないような場所にいるわけです、彼は。
そして、あまりにも長い間、戦争の傍らにいたものですから、そういうことに感性が麻痺していたのですね。

戦争の悲惨さを無視して、その楽しい側面だけを見ていたら、
人の殺し合いのシーンさえも、心躍るスペクタクルにしか見えなかった。
これって、戦争映画楽しんでいる一般の観客にとっては当たり前のことなのですけれど、
収容所とはいえ、戦場にいる当事者にとっては、相当に末期的な症状のように思われます。


「ぼく、両親の顔が思い出せない」
ふと我に返ってみたとき、自分は両親が行方不明で収容所に入れられている可愛そうな子供に過ぎなかったんじゃないのか?

お医者さんの言っている事は正しいですから、彼は−−>向きであり、
そのベクトルに押されるようにクリスチャンベイルの目には涙が浮かんできます。


収容所内の生活では、いっぱしの大人気取りだった少年も、よくよく自分のことを振り返ってみたら、故郷も両親もないただの悲惨な境遇の子供だった。
そして、そのことに気がついて少年は、ただ甘えるように、不必要に子供っぽく、大人に抱きかかえられて、<−−の方に移動していきます。

少年が自分の境遇を理解した時、それまでの明るい青い空の色が、煙でかすんだ灰色に変わります。
その空の色の変化は、おそらく少年の内面を表現しているもののようです。

この境遇の少年の内面と言うのは、無残に残酷に破壊され炎さえ消し止められていない戦場と同じと言う事です。

物語を進めてきた少年の成長と言う要素は、この気づきによってある意味での退行へと切り替えられます。
その退行という心理的出来事を、現実的なものとして観客に提示する為に、階段と言う便利な大道具が使用されています。
移動方向、ベクトル方向の反転には、西洋映画では昔から階段と鏡が用いられてきています。