映画の見方

最近は映画見ることほとんどなくなりました

『ボヘミアン・ラプソディ』

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劇中で何度か馬鹿にされるロジャーテイラーの『I am in love in my car』

このくそ曲が『ボヘミアン・ラプソディ』のB面だったことから多額の印税がロジャーテイラーの懐に入り込み、それが後々までもめごとの火種になったそうです。

 

 

映画館で映画みました。もう年末なんで、今年はこの一本だけ映画館での映画鑑賞ということになりそうです。

 

実をいうと、わたくし、作業中はyoutubeで音楽流しっぱなしなんですが、youtubeから勝手に流れてくる曲って、自分の視聴暦に基づくじゃないですか。

つまり、いっつも同じ曲ばかりローテーションされることになるんですが、

そのせいで、わたくしこの数か月間毎日のように1985年のライブエイドのクイーンの演奏を見ることになってしまってました。 

ライブエイド始まると、作業止めて、ちゃんと映像見ますわな。

その結果、約20分のライブでのバンドのメンバーの動き、振り、ほぼ完全に頭に入ってまして、その出来上がった状態で映画見ましたら、その完コピぶりに唖然としました。

 

別に映画みに行くために、ライブエイドの映像毎日見てたわけではなくて、

ま、映画のことは小耳にはさんだ程度で、まったく気にも留めてなかったんですが、一週間前に映画がヒットしてる!って話題になってて、幸い映画館のタダ券もってたんで 見に行ったんですよ。

 

正直、ライブエイドの映像を完全再現とかさ、

「それ映画として成り立つの?」って疑問に思うじゃないですか?

ヒトラーとかの記録映像、白黒でよれよれの画質と音質ではなく、

ま、多少は今となると見劣りはしますけど、でも音と映像が今でも十分なレベルのクオリティで残ってるものを映画で役者使ってなぞって、「それが映画になるのか?なるわけないだろ?」と思うのが当たり前じゃないですか?

やらせの映像、ミュージシャンでない口パクの役者、それでクイーンの演奏シーン再現して何か意味有んの?と思うじゃないですか?

 

で、映画みたら、

ちゃんと映画として成立してました。

 

 

この映画に関する苦情のほとんどは、映画のエピソードが事実をゆがめている、いくつかの出来事の時系列がおかしいってところなんですが、

(例えば、we will rock youを録音したとき、フレディーはまだ長髪でハードゲイのコスプレはしていないetc)

そういう事実の脚色が、すべて、『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞に対する解釈の一つとして提示されてるわけです。

 

「まま、人を殺してしまった。奴の頭にピストルを向けて、引き金ひいたら死んでしまったよ」

他人殺したわけではなく、エイズにかかるような生活を改められなくて、 結果自分を殺すことになってしまった。

複数の曲をつぎはぎしたような構成、意味の分からんオペラパート、荒唐無稽な曲に見えるのですが、

「まま、人を殺してしまった」の一節がフレディーの血肉を伴うリアルに根差したものと感じられるようになると、『ボヘミアン・ラプソディ』の曲って今までとは別の光を放ち始めるように感じられるものです。

そしてその一瞬だけは、やらせの作り込みの口パクエアギターの映画が、本物の記録映像を超えたように感じられたりもするもんです。

それは素晴らしいことです。

 

「got to leave all behind and face the truth」

すべてをあとに残し、真実に向き合わなきゃならない。

 

「真実を向き合う」の歌詞のところで 右手を突き上げてふさふさの腋毛を世界中の数億の民に見せつけたフレディーマーキュリー。

むろん、映画でも完コピされてました。

 

主役の顔はあんまりフレディーとは似てないと感じた。でも、役者を通してその向こう側にフレディーマーキュリーを感じられるという点では、それなりによかったと思う。

ただ、ライブエイドの再現のいくつかのカットでは、フレディーマーキュリーそっくりで、びっくりした。

 

CG使って再現された観客なんですけど、事実では、

クイーンのライブのころまでには客はもう炎天下に9時間くらいいたわけで、疲れてたというかやけくそになって盛り上がっていたらしいのがyoutube見ると分かります。

映画のような小きれいで元気満々な観客じゃないんですよね。

 

それから映画でははしょられてましたけど、『愛という名の欲望』、ロカビリーまんまのシンプルな曲なんですが、そのシンプルさゆえに結構みんな盛り上がってました。

あのライブエイドの一番驚くべきことは、あれら観客ってクイーンのために集まった観客でなく、いろんなバンドのファンの寄せ集めにすぎないんですけど、いや、それゆえにファンだけで盛り上がっているときのわざとらしさやいやらしさがないんですよね。

音楽が体現する真の一体感とでもいうべきなんでしょうか。

それが可能だった理由の一つが、『愛という名の欲望』っていうシンプルで万人がイメージするところの古典的なロックンロールを演奏したことにあったような気がします。