一気読みしました。なぜか三巻から読み始め、ラストに至ると一巻と二巻を読んで、
その勢いで、映画まで見ました。
で、どうだったのかというと、
いろいろ難しい気持ちになりました。
連載期間三年超えるような作品は、物語の整合性犠牲にしてるのがほとんど。
『アイアムアヒーロー』で言うと、むやみに外国のエピソードはさんだり、登場人物が増えて物語の場面が分割されていくのを読者が消化するにはかなりつらい。
こういう展開を一気読みすると「なんか違うような気がする」 または、話の本筋から離れた部分はことごとく飛ばし読み。
主人公出てこない箇所はあんまり真剣に読めませんでした。
『アイアムアヒーロー』すこぶる面白い作品なんですが、
でも、この作者花沢健吾、こんな大ヒット作任せられるようなメジャー志向の作家でなく、
もっとアングラな作家のように思ってたんですが、
その違和感、アングラ性癖と日の当たる大衆路線の邂逅による戸惑いってこの作品の主人公の在り方とオーバーラップしてるようでした。
私ゾンビえいが詳しくないんですが、ゾンビ映画って最終的にこういう展開、つまりアーサー・クラークの小説『幼年期の終わり』みたいな人類再インストール計画に至るのが普通なんでしょうか?
私の知るところだと、スティーブン・キングの『The Cell』も人類再インストール計画の実行と挫折のゾンビ物語でした。
で、『アイアムアヒーロー』って、最後はエヴァンゲリオンみたいになって終わっちゃうんですけど、
『アイアムアヒーロー』って『アイ・アム・ザ・レジェンド』のもじりみたいな題名じゃないですか、だからこの漫画のラストって、たぶんはじめっから決まってたんじゃないですかね。
人皆一体化して個性を溶かして巨大な化け物になる、それってインターネットの比喩なのかもしれませんが、
そのそばで時代に取り残されたようなさえない人物が自我と個性を守り続ける。『アイアムアヒーロー』の不定冠詞・ア の意味ってそういう意味かなあと思いました。
んで、三巻から読むという変則的な読み方してると、作中のヒロインの一人の小田さんって、元カノの徹子が髪切る前と同じ顔、同じなりしてるのがわかりました。
ネットで情報あさると、元カノの徹子って作者の元カノをモデルとしてるらしく、別れたんで作中で殺した、だそうです。
でも、別の人物になって和解して、もっとちゃんとしたお別れのシーンが用意されていて、云々、
で、映画のほうなんですが、
そういうキャラの設定無視してますんで、
この長澤まさみの役って何よ?一体?でした。
このキャラの存在感の無意味さ、何も背負ってなさ加減が、作品の説得力を著しく落としており、ダメでした。漫画の持ってるえぐい設定、細かい悪趣味な設定がそぎ落とされると、映画の小田さんというか長澤まさみの役って空っぽですわ。
で、有村架純のほうはどうだったのかというと、意外によかったです。漫画では、主人公とJKが富士の樹海で出会うんですが、富士の樹海って言わずと知れた自殺の名所じゃないですか、
死の世界の比喩とでもいうべき場所で、
これって、腐海の底に世界のよみがえる可能性を見つけたナウシカの場面を思い出させるのですが、
映画じゃ樹海のシーンないんですけど、
代わりの針葉樹の森の中を二人で歩くシーンがしばらく続いて、そのシーンは割とよかったです。
で、有村架純、この映画の時すでに23歳。設定が女子高生なだけに、もう絶対続編作ること無理だと思いますが、
この映画、原作の半分くらいだけを映画にしたもんで、物語上全然何のカタルシスもないんですよね。猟銃ぶっ放してゾンビ百人殺して、それで快感とかって人バカにしてるんでしょうか。
映画これでいいとか思ってる人いるんだったら、もうこの世の中の映画って終わりなんだろうなというか、
物語をもう現代人は求めていないんじゃないか?マンガもそこまで必要とされなくなってきてないか?そんな気がしました。
『アイアムアヒーロー』ってすこぶる面白いマンガなんですが、なんでこんなアングラ志向の作家にこんな大衆路線を描かせるんだろうってのが疑問だったんですが、
なんでこんなアングラな人にそういう似つかわしくない重荷を背負わせるんだろう?
たぶんマンガも終わりが近づいてていろいろ屋台骨も壊れてきてんのかなって気がしました。
ポップミュージック、映画、テレビと昭和の娯楽がことごとく衰退してる中、マンガも先行き短いようで悲しくなってきました。