『血の轍』

キャラクターを数人しか描き分けることのできない漫画家って結構いるじゃないですか。だいひょうてきなのがかわぐちかいじでしょうかな。

でも、キャラクターを数人分しか書き分けることができないのを逆手にとって物語に厚みを出すことに成功してる人って、何人くらいいるんでしょうか?岡田和人を以外に。

 

押見修造はどうなんだろうと作品を読み進めていくと、

どうして岡田和人作品では、キャラクターと物語要素と舞台設定がパーツ化されて、分解されて、再構成されて、キャラがそして作品そのものが輪廻転生を繰り返しているように感じられるのはなぜだろう?ということなんですが、

その理由の大きな一つは、彼はヤングチャンピオンにしか連載持っていないからなんでしょう。

毎回毎回同じ雑誌でほとんど同じ読者相手に似たような物語書いてるという特殊な条件を持っていますんで、必然的にこういう作風になってしまったんだろうなという感じがします。

それと比べると、押見修造は、主に講談社の雑誌に作品を発表していますが、いくつかの雑誌に分散されていますし、講談社以外の出版社にも作品を出してますんで、岡田和人的な突き詰め方には至っていないようです。

至っていないようなんですが、

『血の轍』では、『惡の華』と同じ街、同じ学校、そして同じ家、

そこには『惡の華』の主人公と似たような顔立ちの主人公がいて、

彼の母親は前作では主人公のガールフレンドだった人と同じ顔で、

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彼の初恋の相手は仲村さんを少しばかりきれいにした顔。

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そうそう、ここまでやって、はじめて岡田和人と同じ芸風と言えるんですが、

押見修造の場合、『惡の華』は講談社別冊少年マガジンで『血の轍』は小学館ビックコミックスペリオールなんですよね。読者層も相当にずれる両雑誌ですから、これだと岡田和人作品のような受け止められ方ってするもんなんでしょうか?