スティーブン・キング風の脚色も、バットマンも、ゾンビものも、すべてドラキュラの傍流、そう考えると何とも偉大な『魔人ドラキュラ』ですが、
そういう傍流ではない『魔人ドラキュラ』自体が何度も映画化されており、それらを見比べるといろいろと分かってくることがあります。
原作ですと、イギリスの弁護士がロンドンの不動産購入の件でルーマニアのドラキュラ城へと赴く際の旅日記から始まります、
その旅日記の始まりの調子は決して暗いものではなく、むしろ旅先での珍しい食べ物や珍しい民族衣装に心躍るさまが描かれています。
また自然の光景にしても、ルーマニアの非常な美しさについて描写されています。
それと比べますと、
『魔人ドラキュラ』1931
いきなり荒涼とした光景を砂埃を建てて進む馬車。
馬車の中ではルーマニア辺境の迷信についての恐ろし気な会話がなされます。
単刀直入に、不吉な予感を表現しています。
『ドラキュラ』1992
コッポラ版でもドラキュラ城への旅程に心躍るものは描写されません。
『吸血鬼ドラキュラ』1958
クリストファー・リーとピーター・カッシングの黄金コンビ作品。
始まりから古のホラー調のBGMで、やはり不吉な予感のみ描写されます。
に対して、ドイツ版の『ノスフェラトゥ』1922では
ドラキュラ城への旅程は、不吉な予感を垣間見せつつも、基本的には気分のいいものであることを描写する点で、原作に近いものになっています。
『ノスフェラトゥ』では、悪徳業者が辺境の地の謎の人物に傾いたボロ屋敷を売って一儲けしようという設定ですので、序盤は妙に明るい調子です。
また、製作年が第一次大戦の数年後でまだ碌な機材がなく、屋外撮影で夜をうまく表現することができなかったため、
この楽し気な旅路が暗転する様子をネガポジ反転という野蛮な手法を用いています。
では、原作の小説の方ではこの暗転をどうしていたのかというと、
陽が高い内は心躍る風景だったのが、日がかげるにつれ不吉な様相を帯び、日没後には魔物に取りつかれたようになるのですけれども、
日中でしたらいろいろと異国の光景について描写できるのですが、あたりが暗くなってしまえばもう何も見えない訳でして、拍子抜けするくらいに単調な描写に終始しています。
この点に於いては小説は映画に全くかなわない。
もしかするとドラキュラ城までの旅程に関しては最もうまく映像化したのは
『ノスフェラトゥ』1979かもしれません。
原作と違って、馬車がドラキュラ城の方向に行きたがりませんので、弁護士は徒歩で
行くこととなります。
ドイツロマン主義絵画を思わせる光景です。
陽がかげってきても、不吉というよりかは荘厳というべき様子です。
ちなみにドイツロマン派絵画のフリードリッヒ。
夜になり、ドラキュラ伯爵の馬車に出迎えられる時も
ロマン主義オペラ調のBGMで、これはちょっとやりすぎか?
人は生きる欲求に突き動かされるだけでなく、死への憧れも持っている。二度の敗戦を経験したドイツ人にはすんなり受け入れやすい哲学でしょうか。
ヘルツォーク版の『ノスフェラトゥ』は、ドラキュラというよりもドイツロマン主義絵画の映画化のような趣があります。
島国のイギリスと違い、ドイツやオランダですとルーマニアから船でドラキュラがやってくる必然性ってないんですけどね。