西部劇の舞台、19世紀後半のアメリカ南西部。
メキシコとインディアンからぶんどった荒涼とした土地で、人がまばらにしか住んでいなくて、まともな治安が維持されていない。
それゆえ、力と才覚のある男なら、しがらみに左右されることなく自分の生き方を追求できる、
そういうのが、アメリカ人のカウ・ボーイに対する幻想の典型だとしましょう。
ハリウッドが西部劇を撮りだしたころには、すでにフロンティアが消滅し、カウボーイの存在が理想化されていました。
劇中のカウ・ボーイたちに、かっこいい男が言うべき台詞、かっこいい男がなすべき行為を演じさせていたのですが、
60年代半ばになると、アメリカのリベラリズムの進展とともに、西部開拓はインディアンの虐殺という歴史観が幅を利かし始めると、「古き良き西部劇」がなりたくなってしまいました。
やがては西部劇そのものもほとんどなくなるのですが、
最後まで残ったのは、やたらと薄汚れた世界観のマカロニウエスタンや、それを模倣したニューシネマ的な暗い西部劇でした。
それでも、カウボーイの映画を世界中が喝采した事実はちゃんと残ってありますし、その影響は今も続いているようです。
「自分が上手く生きることができないのは生まれる時代と場所を間違えたからだ。カウボーイ時代の西部に生まれるべきだった」そういう人たちがぼっぼつと出てきたのではないでしょうか。
またそういう人物を主役に据えた映画が、それなりに受けてしまうのが現実というものです。
世界初の西部劇『大列車強盗』
10分程度の短編作品。最後に対した脈略もなく、観客に向かって発砲される。
当時の客はマジでのぞけったという。
そういえば『タクシー・ドライバー』でも、スクリーンを見る側に向かって執拗に拳銃の空撃ちが繰り返され、見ていて非常に不安な気持ちになります。
つらい現実の中で、自分の姿を見失い、
フィクションの中のヒーローに自分を同一視した者の冒険譚。
そうまとめてしまうと、『タクシー・ドライバー』と『キック・アス』って同じですし、
また、明らかに意識しているだろうシーンがぽつぽつと目につきます。
ちなみに、44マグナムって弾丸の名称で、その特大の弾を打ち出せるピストルにはいろんな銘柄がある、
ということをさっき知りました。
44マグナムって拳銃の名前ではないんですね。
さっきネットで『タクシー・ドライバー』の脚本を読みました。
映画では、主人公はマグナム対応拳銃を買ってしまいますが、脚本段階では値段が高いので買うのを見送ることになっていました。
そして映画にはないのですけれど、「最近映画で使われて有名になって値段が吊り上がった」という売人の台詞が脚本にはありました。
無論、イーストウッドの『ダーティー・ハリー』のことを言っているのですが、
『タクシー・ドライバー』の五年前の映画です。
ちなみに、『タクシー・ドライバー』の中で、ジョディ・フォスターが「あなたさそり座でしょ?最初に見た時からそういう感じした」って台詞がありますが、
『ダーティー・ハリー』の悪役の名前がスコルピオ。ベトナム帰還兵という設定。そしてロリ専殺人鬼。
『ダーティー・ハリー』は、マカロニ・ウエスタンの世界を70年代のサンフランシスコに移植したものですが、
西部劇を現代に移植したのが『ダーティー・ハリー』ということを意識したうえで、ニューヨークの「遅れてきたカウボーイ」を描いた『タクシー・ドライバー』が成り立っている、少なくともポール・シュレイダーの脚本の段階ではそう意識していたのが分かります。
『タクシー・ドライバー』では最後に少女を助けるために売春置屋に討ち入って大立ち回りするのですが、
『キック・アス』の方では真ん中より少し手前くらいの早い時間帯に討ち入ります。
そこで返り討ちにされてスカタンにされるのですが、『タクシー・ドライバー』とは違って、図らずもちっちゃい女の子に助けられることとなります。
『キック・アス 2』の方でも、真ん中より少し手前くらいの早い時間帯に中国系マフィアの賭場に討ち入って売春婦を救出するエピソードがあるのですが、相当拘っているのがわかります。
『タクシー・ドライバー』のほうでは、このような「遅れてきたカウ・ボーイ」としての自己イメージ化を非常に批判的に描きつつも抗いがたい魅力を提示しているという点で、ものすごい映画ですが、
『キック・アス』の方は、大方の人が受け入れられるだろう爽やかな絵空事として描いています。「遅れてきたカウ・ボーイ」としての疎外感もなければ、『タクシー・ドライバー』という超絶きもい映画を元ネタにしていることに対する暗さもありません。
2011年に某ファッション雑誌が、『タクシー・ドライバー』のシーンを再現した写真を掲載しました。
キアヌ・リーブスとクロエ・モレッツですが、
こうやって見ると、ジョディ・フォスターの方が美少女だったんだな、と。