東海岸への入植者が西部へ開拓民として拡散していったのがアメリカの歴史なのですが、
その西滲もスムーズに進んだというわけではありません。
この緑野地帯は、アメリカ中央部の大草原地帯ですが、
草原ということは、木が茂るほどには植物の繁殖には向いていない場所ということでもあります。
内陸地ですから、海から吹く風はここに届くまでには乾燥してしまい、それゆえに降水量が少ないですから、森林が育たない。
入植しようにも家を建てる木材の現地調達がままならない、そういう地域です。
この乾燥地帯を突破して西側の開発が進むのは、1869年の大陸横断鉄道の開通が契機なのですが、
それ以前にも、太平洋側への陸路は探検家により開発され、未開の西部に憧れを抱いたもの好きたちが幌馬車の隊列を組んで西の向こうへとぽつりぽつりと移動入植していったのですが、
ドナー隊の悲劇はそのような移住者たちを襲った悲劇の一つです。
『シャイニング』の中で、ホテルに向かう車の中で、奥さんがドナー隊について触れる箇所があります。
ドナー隊事件とは、映画の台詞でも触れられていますが、カリフォルニアに向かった開拓民一行が、冬が来るまでに目的地に到着できず、雪の山中で足止めを食らい、その間に飢えと寒さで半数が死亡した。尚生存者は、死者の肉を喰らうことで生きながらえたという事件です。
ちなみに、『シャイニング』のホテルの所在地はコロラド州ボルダーに設定されています。ボルダーはコロラド州の真ん中から北に寄った場所で、
ドナー隊の遭難地点はカリフォルニアのシエラネバダで、二点の直線距離は1500キロ。
全然遠くですが、主人公は東海岸から移住してきたという設定で、東側の人間にとっては、コロラドもシエラネバダも似たようなものというのが、この台詞のやり取りから分かります。
スティーブン・キングはイタリア人が撮ったインチキ西部劇のマカロニ・ウエスタンの中に「シカゴがアリゾナ州にある」という台詞を聞いて、アメリカが遠い惑星のことのように思われてくらくらした、と書いていますけれども、
当のアメリカ人にしたところで、アメリカは広すぎますから、コロラドもシエラネバダもどこでもドアでつながっているようなもんらしいです。
ちなみに、『シャイニング』の冒頭の空撮シーン。『ブレード・ランナー』のラストシーンに流用されたことでも有名ですが、
この景色がSFに使われたということは、これはアメリカ人にとってさえ別の惑星に見える光景らしいということです。
そして、コロラドの山中のホテルに向かう道沿いの光景のように映画では紹介されていますが、実のところ、これはコロラドから1000キロ北に離れたモンタナ州の国立公園。
当のホテルはコロラドにあるのか、といいますと、
このロケ地は、太平洋岸のオレゴン州だそうです。
コロラド州は、キューブリックのイメージにふさわしいほどの大雪が降らないのだとか。
スティーブン・キングも、マカロニ・ウエスタンの地理的なあやふやさに突っ込みいれてる前に、自分の作品の映画かがどのようにアメリカの地理を歪めているのかについてちゃんと認識しておくべきなのではなかろうか、
いや、もしかするとスティーブン・キングの小説自体、地理感覚狂っているんじゃないのか?キングが『シャイニング』を執筆するきっかけになったホテル周辺をネットで調べてみると、5メートルも雪が積もるような場所のようにも思われません。
つまり、大方のアメリカ人にとっては、コロラド州のようなマイナー州のことについてはいい加減な知識しか持っていなくて、
大多数の日本人にとって「沖縄では真冬にはセーターを着る必要がある」というのと同じくらいにどうでもいいことなのでしょう。ちなみに東京ー沖縄の距離は1500キロで、コロラドのシャイニングのホテルからドナー隊の遭難したシエラネバダまでの距離とほぼ同じです。
そして、それゆえに、自分の心の中にあるイメージを、好き勝手な場所からのイメージで切り貼り構成して、作品に仕上げる自由がアメリカ人には与えられている。
少なくとも、外国人からそのいい加減さについて突っ込まれる可能性はゼロに等しい、ということです。
しかし、
そういういい加減さを、ネタとしてつつく以上に、
「なぜ、作者や監督の中に、そういう心的イメージが構成されたのか?」について考えて見ることが、映画を考えることであると私は考えます。
わたくし今回の記事を書くにあたり、wiki英語版の『The Shining』の箇所を読んだのですが、たかだか一映画についての記述にしてはやたらと熱の入ったものでした。
書き込む人たちがそこまで熱を帯びてしまうのは、『シャイニング』の天才監督の作品に対して、天才原作者がクソミソに批判したという事実なのでしょう。
どちらの天才が正しいのか?それともどちらも正しいのか?
どちらも正しいとしたら、なぜキングはそこまで映画に対して批判的だったのか?というのが、映画の内容以上に私たちの興味を引き付けるのですが、
キングは、この作品を執筆していた頃、本当にアル中だったらしいですし、
主人公の抱えていた生活の問題も、数年前までは実際に彼自身の問題だったようです。また、彼の生い立ちでは、両親との問題が大きく、
『シャイニング』の恐怖は、彼にとっての家族問題の比喩とでもいうべきものであり、
キューブリックがそういう心理描写をバッサリと省略してしまったところが、キング的には許せなかったのでしょう。
自分の心の奥の生の部分を否定されたかのような。
The Shining - Trailer - YouTube
(小説の中にあったスズメバチのエピソードが、BGMの中に痕跡として留まっている)
それでは、キューブリックはその代り何を前面に持ち出してきたのか?というと、
wikiに書いてあったのですが、
アメリカ西部開拓の闇の部分だそうです。
アメリカの西部の歴史について調べてみると、いやというほど卑劣な話を読まされる、そしてその裏側のキレイごとに辟易するのですが、
『シャイニング』のホテルは、インデアンの葬儀場だったという設定であり、
白人が葬儀場を奪取してホテルを建てたために、創業時はインディアンの襲撃にあったということになっています。
インディアンの聖域に白人が入植したという設定ですから、ホテルの内装自体がインディアン的デザインをモチーフにしています。
インディアンと白人の抗争が、100年の時を隔ててよみがえる、というのがこの映画のモチーフの一つとすると、
このシーンにも説得力が増します。
子供の時、この映画を見て、
超常的な存在に取りつかれているにもかかわらず、銃よりも殺傷力の弱い斧で武装しているジャック・ニコルソンに違和感を感じたものです。
しかし、アメリカの地理と歴史について少々学んでみますと、かなり印象が変わってきます。
そして、ホテルの所在地がインディアンとの抗争の場所であったということから、アメリカの国旗をこれ見よがしに飾ることは当然なのかもしれませんが、
やっていることの悪辣さと西部にある危険のことを伏せたまま、一般人を西部開拓に駆り立てた当時の為政者を連想させます。
本来、キューブリックはこの支配人が、ホテルが幽霊に取りつかれていることを知ったうえで、主人公家族を雇った腹黒い人物であるとのラストシーンを撮影していたそうですが、
話が複雑になりすぎるからと、そのラストシーンは破棄されたとのこと。
登場人物たちの服装も、ホテルのインディアン的色彩に合わせるように、茶系統の暖色なのですが、
ホテルの冬がどんなだかを知らないうちの母と子は、アメリカ国旗の色彩に合わせた服装をしています。
「西部開拓は神の意志である」と煽られた開拓民を襲った悲劇、そして、開拓民が原住民に与えた殺戮をそういう細部の中で描きこんでいるわけですが、
作家になる夢を捨てきれず一冬ホテルにこもる管理人の仕事を引き受けようって夫と結婚してる妻ですから、変な人であるには違いないのですが、
30超えて普段着がこれって変じゃありません?
『大草原の小さな家』のローラ役のメリッサ・ギルバート
西部開拓期の子供の服装ですね。
移住先に何が待っているかについて無知で無邪気な様子。
西部開拓とカウボーイについての本を図書館で読み漁っていますと、
『大草原の小さな家』のお母さんは、ほとんど仕事をしていないそうでして、
当時のアメリカプロテスタントの家庭では、イギリスの中産階級的な家庭像への憧れが強く、「女に仕事をさせるのは男の名折れ」という風潮があったそうです。
お母さんは、子育てと料理くらいしか仕事をしてない代わりに、たいていの家庭ではお母さんの方がお父さんよりも学歴が上だったとか。
それで、お母さんグループで読書会開いたりお料理教室開いている一方で、お父さんたちは麦の畑で汗流していたのですが、
そうなると、
お父さんはどうしても経済的な成功が手に入れたくて「もっと西へ行ってもっと広い土地がほしい」となるのですが、
お母さんは「文明の届かない僻地には行きたくない」と反対するのが普通だったとか。
確かに、『シャイニング』でも、お父さんが西部行きを推進するのですが、お母さんはあんまり気乗りしないままでした。