読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『ちりとてちん』 113話   ネタバレではなく、タネあかし 

あまちゃん&ちりとてちん

今回の話は
映画って、被写体に対し「ピントを外す」「ライトを当てない」「フレームの中に入れない」ことをどんな意味で行っているかという事ですが、


『ピンポン』

「少年、何があったのかは知らないけど、君が死んだらお父さんお母さんなんて思うかな」

普通の人が普通に写真を撮った場合でも、こんな風に誰かの顔をフレームで切り刻んだ場合、
あまりいい反応は返ってきません。

これは、迷信的に私たちが、フレームで顔や首を切る事を、その被写体そのものを冒涜することのように感じているからでしょう。

そして、そんな迷信的な心情は、映像表現のテクニックの一つとして使われています。

『ピンポン』の冒頭で、首から上をフレームで切ったカットがあります。
主人公がだれで、どんないきさつでこうなったのかについては全く説明されないまま、このカットです。

映像作品でこのような構図が出てきたとき、どのような意味を帯びているのかという事ですが、

死人、誰でもない人
そして、このように顔を隠された人物の言葉は、
非個人としての言葉
もしくは、
当人の心を反映していない偽りの言葉



で、飛び降りる。

映画の画面の進行方向は、現代の日本では ですから、
飛び降りて着水するまでの間に、この人物はのネガティブな方向から、ポジティブな方向に生き返るわけです。

そして、これは特定個人の黄泉がえりではなく、
もっと普遍的で不特定な人物、つまり現代日本社会が生まれ変わることを象徴的に描いた冒頭シーンですが、


物語中盤で、誰がどんな理由で川に飛び込むのかが分かった上のカットでは、ちゃんと首から上が映っています。

映画の進行方向については『映画の抱えるお約束事』をどうぞ


ちりとてちん』 31話 井上剛監督

あまちゃん』のメイン監督・井上剛がとにかく人を泣かせた演出法です。

弟子が師匠に向かって、「ちゃんと落語教えてください、もう一遍落語家に戻ってきてください」と懇願する場面。

弟子と師匠の顔の向きを比べてみてください。
 → ← と二人の向きが対立を示しているときは、二人の意見は対立しています。


しかしアップになった時、二人の顔の向きは対立を示していながらも、師匠の顔はピントが合っていません。
つまり、彼が弟子と意見の対立を成しているときの心情は偽りである、偽の仮面の語った言葉であると見ている者にはなんとなく感じられます。



師匠一人だけの明瞭なカット、その時、彼の向きは さっきのカットの弟子と同じ ← 向き。 別々のカットであらわされていますから一見したところ意識しにくいですが、
口先では、ああ言っているけど、内心では弟子と同じ気持ちなのではないか? というイメージがともに←方向であることから察せられます。

映画教科書で言うところのイマジナリーラインの侵犯、そしてその有効な活用法です。


その後の二人一緒のカット。師匠をもう一度ぼやけさせて、師匠と弟子の言葉上での対立は、実は本心のものとは違うのだろう、と見ているものにもう一度思わさせます。


このような登場人物の「首切り」「ボヤカシ」は、映画・テレビドラマの表現上の「お約束事」の一つですが、
見ている側は、この「お約束事」について事前に了解しておかなくては意味が分からないのか?と言いますと、

「写真のフレームで顔を切る事を、その被写体そのものを冒涜することのように感じている」「顔のぼやけた人は幽霊みたで真実がない」という私たちの迷信的な認識に寄り添うものであることから、

映画やドラマの初心者にさえも、見ただけでなんとなく意図するところが伝わってしまいます。


ちりとてちん』111話
自分が死んだ父親に相手にされていなかったことを、病床の師匠に語る小次郎叔父ちゃん。

渡瀬恒彦、役者だったら誰だってこんな風に、自分の顔を切り刻まれるような構図が楽しいわけはないんです。
演技してる意味ないですから。

でも、こうやって切り刻まれることによって、
「師匠はすでに死んだ人」というニュアンスが生じます。


でも、逆に画面上で切り刻まれて死んだ人だから、死んでいるはずの父親の言いたいことを代弁してくれる、
とみている人には伝わります。

そういえば『あまちゃん』でも宮本信子の顔を切り刻んでいました。


ちりとてちん』 113話
小次郎叔父ちゃんのお守り袋に師匠が触れるまでのカット。

生きている人たちは窓の白いあかりを受けていますが、死にゆく師匠にはその光が当たっていません。


「うちもあやかりたいわ」
「あやかってください」

そのとき、師匠の顔はフレームで切り刻まれています。

お守りに願掛けする前にすでに師匠の画像には存分に死相を漂わせていますので、

実際願掛けする時点では、師匠はほとんど生きている人のようには見えません。



そんなほとんど死んでいる人が、宝くじの入ったお守りにいったい何をお願いするのだろう?

しかもお願いするシーンを不自然に三つのカットに分割することで見ているものに違和感を印象付けます。

この宝くじに願掛けすることは、『ちりとてちん』の後々まで引きずる伏線になっています。

二時間程度の映画ですと、この程度の仕込みで伏線として機能するはずなのですが、一回見たら次の回までは24時間の時間が空く連ドラ、しかも40時間の連ドラでは、映像的伏線の仕込みは本当にくどくやリ重ねないと、見ている人は忘れてしまいます。


死の間際に師匠に稽古付けてもらえないことに不満の主人公の額に、幸せを祈願するように触れるシーン。
ほとんどさっきのお守りのシーンの繰り返しです。


既に死ぬことを承知してしまった師匠が、宝くじに願掛けしたこと、
それは、自分の命のことではなく、
他の人の幸せのこと、
小次郎叔父ちゃんの幸せのことだったり、自分の一門弟子の幸せのことだったり、それから、誰かの幸せのことだったのでしょう。

幸せを願った対象の分だけ、願っているときのカットが切り替わっているように私には見えます。