蓮實重彦が立教大学の教授だったときの伝説の授業と言われているものは、
こんな感じだったらしいです。
まず、「未知との遭遇」を見せる。
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それから質問。
ハイ、どんな映画でした?
「UFOがきれいでした」
ハイ、次。
「主人公は 根性あると思いました」
ハイ、次
「十戒と物語の構造が似ていいると思います」
ハイ、次。
「ドアが十五回出てきました」
ハイ、そうですね。
この後、どう授業が続いたのか?という事がネット上ではまず語られず、
面白おかしくドアの枚数云々のところだけが独り歩きしているようなのですが、
映画の中にドアが15回出てきた、という事実の確認の後、
おそらく授業は以下のように続くのだろう、もしくは続くべきなのだろうと、私は考えます。
日常生活で、ドアを何回開け閉めするのかを数えさせる。
私たちは、洋室主体の家に住んでいれば、一日に何十回となくドアを開け閉めするでしょう。
その日常生活実感的視点から、映画の中にドアが何回出てこようとも、
「それがどうした?」と思ってしまいます。
しかし、
二時間弱の映画は、無意味なことは片っ端から端折って大事なことだけを映しているはずであり、ドアを開け閉めすることに監督が意味を感じないのなら、
そのようなシーンはすべてなくすることができるはずです。
たとえば、
4日間の中の出来事を二時間にまとめた映画があるとして、実際4日間では寝ている時間が三分の一ですから、映画の中でも40分寝ているシーンにしなければならないのか?とか、
トイレには32回行くはずだから、32回分トイレのシーンを挿入しなくてはならないとか、食事の回数は…、歯磨きが…、と
実際のところ、そういう映画ってこの世の中にはまずありません。
だから映画の中のドアの開け閉めの回数は、私たちの日常生活での開け閉めと比較するよりかは、
他の映画を何本か倍速で見て、それらにドアが何回出てくるのかを数えて比較するのがいいではないでしょうか。
そして、一本の映画にドアが15回映るのが多いと結論できたのなら、その映画はドアにこだわりを持っていると仮定してみる。
映画のその他の要素との関連から、ドアが特定の意味を担わされているのかどうかを考慮してみる。
映画を見たときの自分の情感の変化のタイミングと ドアの登場場面に関係があるのかを自己分析してみせる、学生にも自己分析させる。
学生には宿題として、ドアが10回以上出てくる他の映画を見つけてこさせる。
もう一つの宿題として、ドア以外の物質が似たような扱いを受けている例を探してこさせる。
こんなところでしょうか、おそらく。
『乱れる』
橋のシーンは、いくつあっただろうか? 6回だろうか?
そして橋はこちら側とあちら側をつなぐものですけれども、
それでは隔てるものは、川以外に他にもあるのだろうか?と考えていきますと、
家の座敷と二階へ行く階段を繋ぐ渡り板、畳のへり、鴨居、敷居、プラットホームと電車の隙間、列車の通路、そして電話のこちら側と向こう側、とボロボロ見つかります。
そして、それらで隔てられるときに女は本心をより多く見せますが、隔てられていないときには本心を隠す、そういう物語らしい、ことに気が付くのですが、
この場合の思考プロセスは、
①橋の数を数える
②一般的に橋がどのような象徴として使われることが多いかに着目すると同時に、それに類するものにも着目してみる。
③それら象徴がどのように機能しているかを 映画を見たときの自分の情感の流れと絡めて考えてみる。
では、『乱れる』以外の映画で橋の数を数えるとどうなるかと申しますと、
『ノルウェーの森』
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橋の登場回数1回 大学の渡り廊下等2回
橋にこだわっていない映画での、橋とそれに類する物体の登場回数は、こんなもののようです。
ちなみに、自分の日常実感では、一日に橋を渡る回数は、片道3回 往復で6回 です。
これで、割に川の多い地域に住んでいるのですが、 多い日でも15回くらいではないでしょうか?
大学にいたときには、『ノルウェーの森』同様に一度も橋を渡らない日がいくらでもありました。
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橋 登場回数1回でも、その橋を渡らない 橋に類する道路 1回
こう見てみますと、
『乱れる』の橋だけで6回は相当多い、ことが分かります。
そして、橋、こちら側とあちら側、渡河 に無意識的なメッセージを語らせるには、相当の回数それらを登場させなくてはならないのだろうと仮定できます。
映画の中で一回か二回しか橋を登場させないのでしたら、それこそフロイトの夢判断的に、
「橋を渡ること」は境界線を越えることの意味、みたいな解釈になってしまい、
その映画の中での橋は無意識に機能するというよりかは、唯の意味の翻訳に陥るように思われます。
『laundry ランドリー』
私が映画の中で、橋の数を数えてみたのはこれが最初です。
主人公が東京から故郷の西伊豆松崎町に戻ったシーン。
漆喰装飾の有名な街で、この橋も何度か映画、ドラマに出てきます。
この小雪が橋を渡るシーンを見て、私は、「おおっ」と思うわけですが、
①「ああ、わざわざ松崎までロケに出向くとは、この映画は橋にこだわってるな」と思う
②映画の中に何回橋が出てくるのか数えてみる
(あんまり数が多いので、途中で数えるのをやめてしまった)
③橋に類するものは、他に何かあるだろうかと探してみる、と、
土手。そして土手に類する光景として、片側しかない光景が多用されている。
川、橋、片側しかない光景だけで、上映時間の三分の一くらいでしょうか?
異常にそれらにこだわっていることが、はっきりと分かります。
自分と相手を隔てる境界線 境界線のこちら側とあちら側 境界を繋ぐもの
物語は、その範囲でうろちょろするだけで、
その点だけに着目すると、『乱れる』と『laundry ランドリー』は非常によく似ている映画だ、という事に気が付きます。
恋人との幸せな時間。
誰かと一緒にすごすこと、結婚して一緒に暮らすこと は境界線のこっち側に二人ともいるという事です。
デートの待ち合わせはいつも陸橋の上。そして、ある日、八時間待っても彼はこなかった。
「誰の子ども?」と階段を降り始める小雪。
「僕の妻の子ども」
つまり、既婚男性に騙されていたという事ですが、
陸橋を下りてしまっとき、彼は向こう側、自分はこっち側で断絶したイメージが画面にあらわされていたわけです。
それゆえ、ラストシーンは必然的にこうなります。
境界線を越えた、同じ岸辺にいる二人。 ←向きに走ってきた女、二人の結婚と未来を祝福する援軍として 鳩も←向きに飛ぶ。
このように映画を解析してみますと、橋や土手は映像作品でさりげなく用いるに適した素材なのですが、
これを仮に、小説で描写しようとすると、ものすごく口説くなり、橋と土手に拘っていることが読者にはっきりとばれてしまいます。
また、土手との類似を示す、片側しかない光景、をどう小説で描写していいかもよくわかりません。
一方『ノルウェーの森』ですが、橋を渡るシーンはほとんどありませんが、水辺のシーンはやたらと多い。
女の分かりにくさを淀んだ水の深みであらわしているのだろう、とそれこそフロイト的に解釈してしまうのですが、
とにかく主人公が女といるときには、プールだの雨だの水辺だの海だのシャワーだの、水のオンパレードです。
女の登場シーンを水と絡めることは夏目漱石もいつもやっていましたが、
小説の場合ですと、
「よどんだ池の向こうから女が現れた」の一行で済みますけれども、
これを映像でやると、数秒間は必ず画面の上に水たまりか何かが映るのですから、
とにかくくどい。無意識的なメッセージとしてはほとんど機能していません。