映画術 進行方向についての疑問 『乱れる』

どうして、現在のほとんどの映像作品は、画面の進行方向を意識して構成されているのでしょうか?

移動のシーンでは、行程全てを映し出しているわけではありません。移動したという事実を表現したいだけで、移動しているシーンを全て映すことはまずありません。
ポイントポイントをつまんで行程を端折るのが普通ですが、移動の継続を示すには、継続した方向を画面が示し続ければそれでいいわけなのですね。
そして
→ → → →と画面が続いてが楔に入ったとき、その継続は途切れた、つまり移動が終了したと見る者には感じられやすい。

『クオヴァディス』







ロバート・テイラー率いるローマ軍団が凱旋するシーンです。
軍団の行軍は全て向きです。

ロバート・テイラーのチャリオットが方向にターンすると、


終点のローマを見下ろす丘の上に到着していました。これで実質の旅程は終了したということです。



つまり、移動シーンの多い映像は →→→→ と同じ方向の画面を繋いでいきますから、必然的に画面上を接ぎ木された動線が流れることになります。
また、移動の途中を端折っているのですから、時間も端折っていることになり、
そうなると、画面上を →方向に時間が流れている、ともいえるわけです。


映画が誕生して最初の三十年間は、サイレントの時代であり、頻繁に画面に文字が映されていました。それら文字の読み方はなのですから、方向の動きは文字との関連から目に心地よいストレスの少ないものです。それに対して方向の動きは、文字の流れと逆になりますから、観客の目にいくばくかの混乱を生じさせます。

ヨーロッパの中世の本の挿絵

文字を読む方向に馬の絵をそろえると、馬が進んでいるように感じられやすい。


このようなことを考えると、画面を方向に進行させることは必然的なことのようです。


そして、一方『十戒』の一作目とそのリメイクの方向を比較してみると



移動の進行が異なること、

そして


逃げる側と追っかける側の方向に統一性を持たせないことなどから、

映画の発展とともに、徐々に 画面の進行方向のセオリーは出来上がってきたと考えるのが妥当のようです。


また、どうしてアメリカ映画にこのような画面方向を意識する映画が生まれたかについては、

アメリカは国土が広いですから、移動シーンを映画に組み込もうとすると、どうしても端折った形にしなくてはならなくなる。
そして、自動車の普及も早かったですから、画面上を高速で移動するベクトルを考慮しなくてはならなかった。

更には、サイレントからトーキーフィルム、モノクロからカラーへの移行もアメリカでなされますので、

映画画面の進行方向のセオリー化はアメリカに端を発するのは当然のことのように思われます。


一方、日本ですが、
『突貫小僧』 1929年

面白い面白くないはともかくとして、ここに統一的な画面の進行方向を見出せるでしょうか?

成瀬巳喜男小津安二郎がトーキーを製作したのはそれぞれ1935年と1936年のことである。1938年になっても日本では3分の1の映画が無声映画だったそうです。


西部戦線異状なし』 1930年アカデミー賞作品賞受賞

ドイツ軍の塹壕に向かって突撃するフランス軍

ドイツ軍は機関銃や砲撃によりフランス軍を虫けらのように殺戮します。

しかし、フランス軍の突撃がドイツの塹壕に到達したとき、

今度はドイツ側が殺戮される側に回り、
それと同時に 画面の左右の方向がひっくり返ります。

ここで見られるのは、現在の映画と同様の進行方向を利用した無意識的メッセージの表現です。
敵味方で左右の方向を振り分けるのではなく、生きる側と死ぬ側で振り分けているのです。
そこにはドイツ人とフランス人の違いはありません。


そして、戦前の日本映画は、アメリカ映画ほど画面の進行方向を重視していなかった、そして、戦後も小津安二郎のような重鎮は進行方向を重視しない映画を撮っていたと、現在私は考えています。


そして、一つの疑問が沸き起こります。

映画の画面は、絶対的に 進行方向が必要なのでしょうか?という事ですが、


『乱れる』1964年 成瀬巳喜男

冒頭の非常に説明的なシーンです。

近所にできたスーパーの軽トラが『高校三年生』を流しながら商店街を走ります。


その方向を見やる主人公。やがてスーパーがこの商店街とその人間関係を軒並み壊してしまうだろう予感を得たかのように、不安げに下を見ます。


店の中に入って、背中からのカット。

最初のキャプチャー画像では 軽トラックは ← 方向に進んでいましたが
三枚目画像では、向きが反転しているのですから、軽トラックの方向は → 向き走ったことになります。

現在の映画では、右は右 左は左 で画面を構成することが多いですが、
ここでは、
空間的情報を説明的に観客に提示することで、頭の中で進行方向を理解させています。



そして、トラックが走ったはずの方向を 進む客。
冷やかしだけで、おそらく彼女はスーパーマーケットで買い物するだろうことが、
軽トラとの方向が同じことから察せられます。


隣の店舗をほとんど同じ構図で映したカット。軽トラは → に進みます。


軽トラの到着点は 清水屋スーパー。


店におかみさんが帰って来て、スーパーの卵は半額以下であることを店主に告げます。
トラックがスーパーに向かう方向と 逆の←でおかみさんは店に入ってきますから、
スーパーからの偵察の帰りであると察せられます。


個別の場面では画面上の進行方向をちゃんと利用した編集がなされているのが分かります。

ただし、
当ブログが指摘するような『映画が抱えるお約束事』も、ほとんど見られないのですが、

清水から山形へ向かう汽車の進行方向を見ていますと、
車とか汽車のような交通手段によって、映画は乗っ取られたのだろうかと思えてくるのですね。


『乱れる』 は一時間半ちょっとの映画ですが、この清水から山形銀山温泉までの移動シーンが上映時間の10%近くを占めています。
単なる移動を示すシーンとしては明らかに全体のバランス上長すぎるのですが、

画面上に進行方向が即物的に映る移動シーンは、映画にとっては実に便利だという事が分かります。 


二人のポジショニングは、加山雄三→ ←高峰秀子 が基本です。


汽車は → 方向に進みますが、高峰秀子の顔は ← を向いています。
この食い違いに、状況の流れと当人の心の間の矛盾を私は見てしまいますし、
現在のほとんどの映画は、そのように列車のシーンを利用しています。
車と違って、列車ないの人物は進行方向と逆を向いていても違和感あまりないですから。

高峰秀子のあまり感情を表に出さない顔面演技。
仮に、
電車の動きを情欲の方向とし、
とりすました顔は、その流れを止めるカモフラージュであるとしましょう。

そうすると、

彼女を追って汽車に乗り込んだ加山雄三は、歩く方向と汽車の向きに矛盾がありませんので、
男の方は、表裏がなくてシンプルだと感じられます。

そして、この空席が出るに従い、加山雄三の位置が高峰秀子に近づいていくのが可笑しいのですが、
そのプロセスと辿ってみますと、この映画のカラクリがあらかた分かってしまいます。

① 追ってきた加山雄三にミカンを渡される。

② 汽車のカット

③ コートを脱いで和服姿となる。

塩田明彦『映画術』にある通り、高峰秀子加山雄三と距離を縮めるときには、その乱れる心を押さえつける鎧としての和服姿になるという法則が この映画にはあります。

④ 短めの橋を渡る

⑤ 離れた席から微笑みかける加山雄三に微笑み返す。

やはり『映画術』にある通り、この映画は義弟に対して湧き上がる情欲を押さえつけようとする未亡人の物語なのですが、境界線を延々と映し続けています。
そして、ラストシーンにも使うくらい橋にこだわっているのですが、

この清水から上野までの行程を見てますと、移動の時間を端折る為に挿入される外から映した汽車のカットが、
高峰秀子の感情のブースターの役目を果たしているのが見て分かりますし、
橋を超えるにしたがって、どんどん心の鎧が崩れていくのが分かります。

そして、実は、外側から映される汽車の姿が彼女の心を表せいていることに気が付くと、それと抱き合わせの彼女の演技の意味がさらに分かるようになります。

⑥ もっと長い橋を渡る


⑥ ここで、高峰秀子の左右の向きが反転します。

長い橋を渡る、そして顔の向きが変わる。それで、登場人物の心の何かが変わったと感じさせるのが映画の表現。

⑦ 汽車のカットを挟まずに、背中合わせの二人。



⑧汽車の外面からのカット

どこなんでしょうね?清水から出発したから神奈川のどこかなんでしょうか、そしてまだ明るいです。

⑨そして、上野で停車しているシーンとなります。

構内アナウンスを聞いていますと、「23時発…」とありますので、
明るいうちに神奈川についたのに、夜中までいったい二人は何やっていたんだろう?と勘ぐってしまいます。
ここで、加山雄三はバッグをプレゼントしますが、あれはどこで買ったものなのでしょうか?

もしかすると、二人で皇居か上野公園を見物した後にデパートで買ったのかもしれませんし、食事も駅の構内とかではなくちゃんとしたレストランでとったのかもしれません。

また『映画術』にある通り、着物は高峰秀子の心の鎧として機能しているので、ここでコートを上に着ていることに対し、何か怪しいと勘ぐってしまいます。

これが現代劇だったら、二人は東京のどこかのホテルで休憩料金でやっちゃったんじゃないか?みたいな話になるのですが、
この場合は、そういう光景は二人の心に浮かぶ妄想に過ぎないようです。思いはすれども実行しない、わけです。



そして、移動の過程を描くことにこれだけの時間を費やすと、どうしてもその前後の画面の進行方向は移動シーンに引きずられることになってしまいます。

当然のごとく、最後の場面はこうなるわけです。


さっきまでの汽車の進行方向を追うかのごとく、男の死体は→の方向に運ばれていきます。
そして、その方向を乱れた様相の女が追っかけます。

相手が死んでからやっと、自分の中の心の鎧をかなぐり捨てて、情欲の流れに従って→の方向に進んだ女の姿です。


そして、上野から山形に列車のカットのつなぎ方に着目してみますと、

なんで加山雄三が立ち食いソバを食べているのか?という事ですが、

さっきから、ガンガンいろんなものを食っていまして、その食欲が彼の情欲の強さの比喩と言えるかもしれませんけれども、

プラットホームにいる加山雄三目線のカット。

清水からの移動過程の中で、高峰秀子の二つ目の→方向のカットです。

『乱れる』ってどういう映画なのかというと、未亡人が義弟に対して情欲を感じるのだけれど、
向こうが近づいてくると、心に鎧をまとい身を固くしてしまう。逆に二人の間が境界線でしっかり区切られているときは、割に素直に女の方が心をあらわにしてしまう。

そういうオンオフの延々とした繰り返しです。

結局、生死という究極の境界線ができたとき、初めて自分の思いのたけの顔面に表情として浮かべることができるのですが、

この立ち食いそばのシーンで、おそらく別れを決意して、


移動過程での三つめの→方向のカット。
別れが前提であるならば、一緒に温泉宿に泊まることができるんですね この女の人は。


そして、
銀山温泉についたのが、まだ明るい時間。

別れ話を切り出すのが暗くなってから。

この長い間、二人でいったい何やって時間を過ごしたんだろう?と、さっきの電車乗り継ぎの際の時間の空白を再び見せている訳です。


リアリズム的に言いますと、少なくとも銀山温泉では二人は絶対セックスしているはずなんですが、
それを直にいうことができない映画業界的倫理観がこの当時は強かったのでしょう。

そして、現代劇だったら、普通に上野のラブホで一回目、銀山温泉で二回目という展開になります。

というか、未亡人が清水から逃げる必然性さえ見いだせない。


私たちは 映画や文学で 「〜は…の象徴だ」的な言い方をよくしますが、

本当のところ、私たちには言論の自由表現の自由があり、象徴や比喩に隠れてこそこそ表明しないといけないものなんかまずありません。

だから塩田明彦カナリア』では、「おっちゃん、タッチしたら10万やで」みたいな台詞が出てくるのですが、

この当時、といいますか、この時の成瀬巳喜男には、こそこそ暗示的なやり方で本当のことを言わないといけないような倫理観がまだあったという事が、『乱れる』を見ると、ちゃんとわかります。


成瀬巳喜男は 高峰秀子側にいて、その間に境界線があり、私たちは加山雄三の側にいる、そういう事なのでしょう。