『生きる』は画面上の→の方向をポジティブであるとみなし、生を描いています。
だから、志村喬が自分の中に巣食う死の影を見せて相手を怯えさせるときは、常に←向きの顔です。
画面を左右の方向で二分し、それぞれにポジティブとネガティブの意味を重ねる、
その理屈による画面構成法はいくつもの類型的なカットつなぎを生み出すことになります。
生きた人間が 臨終するにあたり、顔の向きを画面上でひっくり返すのもその一つです。
以下は現代の日本映画・ドラマであり、 ←方向に画面が進行しますので、『生きる』とは逆の方向になります。
死の間際、家族に囲まれ、意識が混濁し、
映画は、このようなやり方で「人を殺す」ことを伝統的に行っています。
そして、生きている人を←向き、 死んだ人を→向きで描くことを基本として、このようなヴァリエーションも派生します。
『ごちそうさん』 近藤正臣の臨終シーン
まだ生きているときは ←向きです。
既に死んでしまいましたが、宮崎美子が家族のものに夫の思いを代弁して伝えるまでは、←向きですが、
伝え終わった時に、向きが→に変わります。
そして、遺体から生命だけでなく魂までも抜けてしまったことを表すかのように、画面の色彩は青身を帯びています。
映画なりドラマの画面が特定の方向に進行するとしたとき、画面上には非常に沢山のお約束事的なカットのつなぎ方、画面構成の仕方が、出来上がり蓄積されてきました。
それらは『映画の抱えるお約束事』回にまとめてあります。
よろしかったら読んでみてください。
画面を進行方向の理屈により構成していくと、最終的に映画は『サウンドオブミュージック』のようになってしまいます。
「どのような理屈で画面が構成されているのかは分かる。しかし普通の観客にそのメッセージは届くのだろうか?」という疑問は常に私にはつきまといます。
そして、『サウンドオブミュージック』のような軽薄さを売りにした物語ではなく、もう少し人の心の深いところを突く作品の場合はどうなのだろう?
ということで、今回は、
伊丹十三監督作『タンポポ』を取り上げます。
グルメドラマの走りのような作品であり、流れ者のトラックドライバーが潰れかけのラーメン屋を立て直す物語ですが、
映画はラーメンにとどまらず、多様な食べ物を取り上げ、ショートショートの形式でいくつものエピソードを挿入しています。
最近はyoutubeに映画がupされることが増えましたので、映画について書くことの取り組み方が全く変わってしまいました。
貧乏アパートにする家族の主婦が死ぬ間際にチャーハンを作るエピソードで、これ一つで完結したドラマになっています。
これを見て、
笑ってしまうか、それとも泣いてしまうかは人それぞれでしょうが、
現在の日本映画は←方向に進む、ことを了解しておくと、
このエピソードに込められたメッセージがよくわかり、
意外に簡単に泣くことができます。
どうしてだか分かりませんが、奥さんが死にかかっています。
「眠ったら死ぬぞ、なんかしろ、歌を歌え。そうだ、かあちゃん、飯を作れ」
むちゃくちゃな要求です。「眠ったら死ぬ」って雪山で遭難しかかってる訳でもないでしょうに。
まだ生きていますので奥さんは←向きです。
そして←方向によろよろと起き上り、台所に行ってねぎをつかみます。
ただ、調理を始めるときには→向き。
安アパートのそばを通る小田急。
「まだ温かいうちに、喰え」
奥さんは→向きで畳の上に転がり、医師から死亡を宣告されます。
画面が映しているものはこれだけです。
ただし、伝統的に映像作品が依拠してきた進行方向の理屈をかんがみると、以下のように解釈することが可能となります。
この場面、一体奥さんはいつ死んだのかという点が興味深いのですが、私たちの日常的実感からすれば、チャーハンを食べる家族を見ながら満足そうに微笑んで、それから床に倒れた時が、死亡の瞬間になるのでしょうが、
画面は←に進むことを了解しておくと、
実は、台所でネギを刻み始めたときには、すでに死んでいた、と解釈することは可能ですし、むしろそう解釈した方が、この三分ちょっとの動画を深く味わうことができます。
実は奥さんはすでに死んでいて、チャーハン作っているのは幽霊だった。
肉体はすでに死んでいるけれども、家族のために温かいご飯を作りたいという心は、死後もしばらくこの世にとどまっていた、という解釈も可能だ、と申しますか、それを否定する根拠も別にないと思います。
それでしたら、
チャーハンというのは、ただの食い物ではなく死んでいく奥さんの魂かなにか、という風に解釈したら楽しいのではないでしょうか。
もしくは、実のところ私は、このように考えるのですが、
台所で調理を始める瞬間に、奥さんは死に始めます。そして小田急線のカットがはさまれた時に完全に死んでいます。
つまり、奥さんは調理することで、自分の生命を自分の体からチャーハンの中に移していた、そのように私には見えてしまうのですね。
だから、ちゃぶ台の上に中華鍋を持ってきたとき、奥さんはもう死んでいます。
井川比佐志が「まだ温かいうちに喰え」と怒鳴るのは、そういう訳があるのではないでしょうか。
自分の生命を 後世代の血肉に変えて朽ちていく、というのは、植物にはよく見られるあり方だと思います。
動物は個体の枠組みが強すぎで、わたしたちはそのことをあんまり実感できる機会がないのですけれども。
この動画の場合は、チャーハンですけれども、
芸術家の仕事、それから普通の人でも何かをやり遂げることで後世代と繋がろうとする生き方、
自分のためだけでなく他者を利することで、自分の生命の限界を越えたいと願う気持ちは、
基本的に、すべて似たようなものだと思われます。
そして、この短いエピソードだけをみて、ここまで解釈することは十分可能ですが、
この映画のエンディングは、
であり、おそらく、私がここで語ったことは伊丹十三の意に沿うものらしいことが分かります。
先に死ぬ側を→側に配し、そのあとまで生きる方を←に配置する構図は、
このカットと同じです。
先に死ぬものとその後も生きるものをつなぐ線は、ご飯であり、
命は←の方に向かいますが、
食べ物は →の方に向かいます。
潰れかけのラーメン屋を繁盛させようというメインのストーリーと直接関係ないエピソードですが、
その次のカット、小田急線。
倒れた奥さんの体の線をなぞるように←方向に進みます。
まるで奥さんの成仏する魂を載せて電車が進むようです。
その次に続くカットは、
その電車の残像をどんぶりで受け止めるかのような宮本信子。
「私たちは、他の生き物の命を食べていることを理解しなくてはいけないし、グルメとはその魂を味わう事である」
おそらくそういうメッセージが込められた箇所であるゆえに、名場面(珍場面)として多くの人の注目をいまだ集めるのでしょう。
ラーメンのどんぶりの中にも いくつもの生き物の死体や魂がこもっているのです。
宮本信子演じる未亡人のラーメン屋が存続の危機にあり、それを知った山崎努が地上屋と喧嘩になる。
その未亡人の色香?にほだされるんですけども、
それを心の奥に押しやって、ただ厳しい男のふりをしてラーメン屋コンサルタントの役割を続けます。
この映画のターニングポイントは、このラーメン屋コンサルタントとしての指導を始めるところからなのですが、
←方向に顔を向けつつ、二人の顔が不自然にまで近いことに無自覚であることを示す構図に、よく表れています。