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『かぐや姫の物語』 月にインド人は住んでいないでしょう?

ジブリ作品の興行成績をチェックしてみますと、

おもひでぽろぽろ』と『紅の豚』までは、高畑作品と宮崎作品の成績は拮抗しています。

ただ、『もののけ姫』と『となりの山田君』でとんでもない差がついてしまい、『かぐや姫の物語』まで十五年かかりました。


高畑勲作品には、国民的なヒット作になれない何がしかの要素があるという事なんでしょうが、


わたしが、今回の作品で感じたのは、月からやって来るお迎えの方々が仏教の菩薩や如来だったというのは、一般受けはしないだろう、という事でした。


この、ズッコケ感というかトホホ感というか、なんというか、





三国一の幸せ者という言い方がありますが、
三国とは、唐(中國) 天竺(インド) 本朝(日本)のことらしく、かつての日本人はこの三国が世界そのものだったので、

三国一の幸せ者とは 世界で一番の幸せ者という意味なのですが、

わりについ最近、江戸時代の終わりまで日本人にとっての世界像はそういうものだったはずです。

インド、中国、日本 それに朝鮮半島と出島に住んでいるらしい阿蘭陀人 それしか知らなかったはずですが、

中國に対しては、寺の建築スタイルとかおしゃれな調度とか 漢詩とかから、それが大変素晴らしいところであるというイメージを持っていて、なんとなく想像できたでしょう。

浦島太郎が竜宮城に行ったという話をかつての日本人がきいたとき、その竜宮城の様子を自分が持っている中國のイメージを材料に脳裏に形成したことでしょう。

それと比べると天竺・インドと言えば、いったことのある日本人はほぼ皆無。かろうじてインドの坊さんが日本に数名やってきた程度。中国に行った遣唐使の方々がインド人に会って話したとか、インドに行った中国人から話を聞いたのが伝わったという事もあったでしょうが、

一般人的には
仏さんは、インド人らしい、という事からしかインドのイメージを作ることができなかったんですね。


世界に天竺という場所があるのは知っているけれど、そこについては 仏さん以外に何も知らない、
そして仏さんは素晴らしい、

こうなりゃ、インド人って前近代の日本人にとっては宇宙人とほとんど変わるところなかったでしょう。

だから、宇宙人とか火星人とか月の人を前近代の日本人に描かせたとしたら、そりゃインド人風にならざるを得ないだろう、

いま、宇宙人をそんな風に表現したとしたら(かぐや姫の物語ではやらかしてしまいましたが)、現代の日本人としては笑うしかないでしょ?

この笑ってしまう原因というのは、高畑勲の痛さではなく、かつての日本人の痛さ、それはイメージの貧困さ、もしくは、イメージを作り上げる際に材料となる空想の粘土の質の悪さゆえなのですが、

まあ、多かれ少なかれ、世界中の人たちが、このレベルのことをかつてはやっていましたし、今現在も無自覚にマジでやっている人たちだっています。

『フラッシュゴードン』

悪の帝国はトルコ以東のオールアジア風+ドイツ

デビッドリンチの『砂の惑星』も大体そうです。

この手のバカ映画と『かぐや姫の物語』との違いは、異国を憧れ目線で見ているか上から目線で見ているかの違い、あとは自覚したうえでやっているか無自覚にやっているかの違いです。



たしかに、月からインド人のかっこうした仏教系の方々がインド風のリズムに乗って降りてきたときに、私たちは、笑いそうになりますけれども、
それは、高畑勲への失笑ではなく、かつての日本人のイマジネーションの限界への失笑であり、
監督は、そういう過去をごまかしてもっと一般受けするシーンを作るもできたのでしょうけれど、それを拒否したのでしょう、きっと。



私たちが死ぬと、こういう祭壇の前に棺桶を安置されます。おそらく天国に至る途中にあるゲートなのでしょうが、
そのゲートが、インド的要素のまぶされた中国風建築で、
現代日本人にとっては、「なんで、死んでから中国とかインドに連れていかなければならんのじゃ、それ何の罰ゲーム?」ということなのでしょうけれども、

昔の日本人にとっては、想像できる限界の、ここではない素晴らしいどこかが中国とインドだったのですから、しょうがない。


でも、近代以後、中国やインドに憧れる日本人はいなくなってしまったので、日本人にとって天国のイメージって、ヨーロッパ風になってしまったんですよね。
なんか、今の日本人にとって、仏教って葬式セレモニーの装飾にすぎず、信仰としては水で薄めたカトリックが主なんではないか、そんな気がする次第です。


西洋人がアジアに見る夢は エログロナンセンス何でもありの黄金に輝く楽園。いまだにそういうイメージ引きずっています。

そのネガポジ反転した 日本人がヨーロッパについてみるのは、ディズニーランド的な夢の国

そのような夢の拡散と定着に大きな力になったのは 高畑勲のカルピス名作劇場。


赤毛のアン』の馬車は『おもひでぽろぽろ』の馬車のシーンにつながっているように私は見えます。
日本のくそ田舎で農業やって幸せになる妄想しているとき、主人公が乗っているのは車から馬車に変わり、その馬車はヨーロッパの風景の中を行きます。


月にインド人は住んでいない、高畑勲、そんなことは分かっているに決まってますけれど、
カルピス名作劇場的世界感への 彼なりの落とし前だったのかもしれない、と今現在私は思っております。