高畑勲作品 『かぐや姫の物語』 『赤毛のアン』 『おもひでぽろぽろ』

どうして、この映画、凝縮しすぎとかんじたのだろう、ということですが、
私たちが『かぐや姫の物語』を見る前にもっている かぐや姫 に対する先入観は思いのほか強く、
高畑勲が、かぐや姫をいじることで表現しようとしたことがなかなか伝わらない、だからどぎつい表現や分かりやすいメッセージを塗り重ねていくことで私たちの先入観と格闘したのだろうと思いますが、
その結果、凝縮感のくどさ、あるいはそれが陳腐さと感じられたのかもしれません。

年寄り芸術家が大きなテーマを遺作に選ぶこと、この場合は日本で一番有名な物語の脚色だったのですが、
そういうことの危うさとでも申しましょうか、

そして、往々にして年寄りの遺作って一番の傑作にはならないもんで、
でも、わたしはそれでいいと思います。




この話 女の子の生理というか、女の子がだんだんと脱皮するように大人になっていくことを 大きな比重で描いています。

それが、悪いのか?どうなのか?というのは、わたしには何とも言えませんが、
初見の感想で言うなら
この話 女の子の生理というか、女の子がだんだんと脱皮するように大人になっていくことを 大きな比重でしかも、隠し味を超えた形で描いています。

それが、悪いのか?どうなのか?というのは、わたしには何とも言えませんが、
初見の感想で言うなら、分かりにくい、という事になります。


初潮の後、新しい名前を付けられ、貴族の男を読んで三日三晩のパーティー。

御簾の向こう側の貴族の男たちが、
「ミヤツコの分際でもったいぶって顔隠しやがって、実のところブスなんじゃないやろか」
と言われたときに、かぐや姫は 猛然とダッシュするのですが、

なかなかこのシーンはピンと来ません。

だいたい、このシーンあたりから、この映画にケチ付けたくなってくるのですが、
かぐや姫って、とにかく美人で俗な世間的欲がなくて、老夫婦の悲しみに同調できる優しさがあり、そして叡智の持ち主である、
私たちは、そんな風に『竹取物語』を先祖代々聞かされてきましたから

いきなり、「ブス」と言われたときに、鬼みたいな顔になって猛ダッシュするシーンには違和感を感じずにはいられないのですね。

それでは、『あまちゃん』のヒビキに「ブス」と言われたときに激昂してウニ投げつけるアキと同じではないか、と感じるのですが、

その感じ方は、当たらずとも遠からずといったところのようで、

この映画に感じてしまう違和感、それは、
かぐや姫が理想の女性でもなく、子供に語って聞かせるに都合のいいキャラでもなく、まして叡智などではなく、
大人と子供の間の難しい年齢の女の子という設定が優先されている点なのでしょう。

かぐや姫が眉毛を抜くことやお歯黒を嫌ったのは、単に美醜の価値観の問題ではなく、
大人の女のなりをすることへの拒否感やおそれだったと考えると、腑に落ちる点は多いです。

そして、「ブス」呼ばわりされると、『あまちゃん』の主人公みたいに切れてしまう、もしくはルックスの良し悪しによって値踏みされてしまう女のつらさから逃れたくて猛然とダッシュするのでしょうが、

悲しいことに、どこまで行っても月はついてきます。

いい歳の大人になると、歩いているときに「お月様がどこまでもついてくる」的な感じ方はしなくなってしまうんですが、
実際、「お月様はどこまでもついてくる」ように見えますけれど、
ここでは、いずれかぐや姫が月に帰らなくてはならない不可避の運命 そして、

月経、生理 を拒否することは女の人には無理なことですし、第一世界中の女の人がそんなことしたら次の世代が生まれてこなくなって、人類は滅びます。

ほとんど、この猛ダッシュのシーンだけで予告編を作っていたのですから、非常に重要な意味づけが映画の中でなされていることが推測できますし、
また、この予告編見た観客の立場で言うなら、「かぐや姫のはずなのにいったい何やってんだ?」という猛烈な違和感です。
もっとも、『竹取物語』って日本人ならだれでもどんな話か知っていますから、その知っている部分取り上げて予告編を作ってもインパクトがないともいえるのですが、

とりあえず、この「ブス」呼ばわりされて猛ダッシュするかぐや姫のシーンを繰り返して見てみると、いろいろわかることがあります。

高畑勲は 画面中央に焦点を合わせた日の丸構図のインパクトの強さに自覚的な人らしく、

かぐや姫の物語

探すと似たような構図がぽろぽろ出てきます。

ロリコン呼ばわりされている宮崎駿と違い、高畑勲にはその手の噂がほとんどないのですが、

赤毛のアン』のOP

やたらな理想化と過剰な期待で女の子キャラを塗りつぶしがちな宮崎駿と比べると、高畑作品の女の子の心理描写はものすごく細かく、そしてリアルに見えます。

宮崎駿の遺作『風立ちぬ』は、彼のそれまでの作品の残像の数々が走馬灯のようにめぐるものでしたが、
高畑勲の方も、同様です。

赤毛のアン』と『かぐや姫の物語
子供のいない老人の家庭にいきなり女の子がやって来るという設定も、よくよく考えてみればそっくりですし


OPの映像をちゃんと見ると、『かぐや姫の物語』はこの1分ちょっとの映像のリメイクのようにさえ思われます。



日の丸構図で、森から馬車が出るときに、露出過多で画面が白く飛ぶ表現

「迎えに来るの、迎えに来るのね、誰かが私を連れていくのね」

迎えに来る、という言葉に、かぐや姫を思い浮かべてしまうのですけれども、
赤毛のアン』のOPは恋することで少女が大人に脱皮する瞬間を 暗闇から光の中へ、そして高揚感から空に飛んで、…という形で表現しています。

かぐや姫の物語』の捨て丸との飛翔シーンって、過去の作品にさかのぼることができるのですね。


映像作品が画面の進行方向を操作することで、物語の流れを作り出していることに関しては、『赤毛のアン』のOPなど、完全にその典型でして、
アンの馬車は一途に 方向に進み、←←←と続いた画面に方向の楔が入ることで、移動の過程が終わった、主人公はゴールについたことが示されます。

そういう風に映像作品を見て見ますと、アンのOPは『未来少年コナン』のOPと酷似しているのが分かるのですが、

ただ、ひたすら一気走りするコナンとは違い、
アンは一度だけ 方向を振り返るのですが、


「つれてゆくのね…」
大人になった女の人が、恋した高揚感で空を飛んでいるような気持になりながらも、
子供のころを振り返ると、少し悲しくなる。

そして、それでも、ゴール目指して馬車は進み、その時にアンが笑っていたのか泣いていたのかは、私たちには伏せられたまんま。


空飛ぶシーンの表現力では、宮崎駿に全くかなわないので、捨て丸と空を飛ぶシーンがクライマックスに来た時に、
空を飛ぶ描写力で宮崎駿に負けていることばかり気になって、見ていてツラかったのですが、

人それぞれ得意不得意はあるものでして、

高畑勲の知性というものは、こういうアンが後ろを振り返る小さな箇所に表れているように私は思います。


おもひでぽろぽろ

かぐや姫の物語』と同様にこちらの作品でも女の子の初潮のことが取り上げられていました。

かぐや姫では、主人公は月に向かって真っすぐに突っ走るのですけれども、
こちらの主人公は、真っ赤な夕日に向かって進みはしませんでした。

かぐや姫の物語』の月が月経のことをほのめかしているように、こちらの夕日は月経の血のことを仄めかしていたのかもしれません。

主人公は、それらのことと正面から向き合うことを先送りにして大人になってしまう、
いわば、モラトリアム少女の物語が『おもひでぽろぽろ』だといえるわけです。


男の子から中途半端な告白をされ、それにうまく対処できなかったのだけれど、寝る前にそのことを思いだして、空にも舞い上がる気持ちになる。

「恋して女の子は空を飛ぶ」、ほんとにそういうモチーフを何度も繰り返した来たのが高畑勲で、知的な人間の心の奥の赤面してしまうような素朴さといいますか、

そして、この淡い恋心は、少女が大人に脱皮するきっかけとしてはあまりに中途半端だったんでしょう、

空飛ぶ姿、ものすごくカッコ悪いですし、飛んでいく方向も ネガティブ方向のです。


「あのころをしきりに思い出すのは、わたしにサナギの季節が再び廻ってきたからなのだろうか?」


東京に帰る汽車の中で、引き返すことを決心するシーン。ケムシがサナギになってチョウチョになった。
つまり少女が大人になったことを表す。
を向いていた主人公が 方向に飛んでいったチョウチョの飛翔線をなぞるように方向に向きを変えて、好きな男の元へ、自分の未来の方向へと進みだすシーン。

その時の女の人の気持ちの在り方を、絵で表現していない。

完全に能面です。
「サナギの季節」という台詞とチョウチョが示す比喩の意味、そして音楽の情感、それらによって表現されています。
このやり方は、『赤毛のアン』のOPでアンが後ろを振り返る箇所とものすごく似ているように私には見えます。
登場人物の気持ちを表現する際に、それを観客に敢えて見せないことで、観客は画面ではなく自分の心をのぞき込んでしまうのでしょう。

非常に効果的なやり方ですが、『かぐや姫の物語』では、捨て丸との飛翔シーンをこんなさりげないやり方で
表現していただろうか、どうだろうか、と思い返しているのですが、
わたし、もう忘れてしまいました。

古典文学の『虫愛づる姫君』の要素が差し込まれているといわれる『かぐや姫の物語』ですが、
『あなたに抱かれて私は蝶になる』的なモチーフは、相当前から高畑勲の作品にはあるようですから、
古典から引用したというよりかは、自分と共鳴するものがそこにあったという事なのでしょう。


月(月経)に操られるように、衣服を一枚一枚と脱ぎ捨てていく姿は、まさに脱皮そのもの。


田舎から都に来たばかりの姫は、それまでの田舎の現実とまるで異なる都の非現実的な様子に飛び跳ねて喜ぶのですが、その薄い上っ張りは虫の翅のようです。
もっとも、あまりにもやわな翅で空を飛べそうには見えません。


古典『虫愛づる姫君』とは、ケムシ芋虫のチョウチョ予備軍が好きなお姫様の物語でして、ゲジゲジとかフンコロガシが好きなお姫様ではありません。
あくまでも、変化する虫が好きなわけでして、

そこに、少女から大人への成長の物語をジブリの爺さんたちは見つけて萌えていたんだろうとは思います。
だから、変化するのならば、虫じゃなくともカエルでもいい訳でして、

はいはいして、縁側から落っこちるシーン

オタマジャクシが姿を変えてカエルをみならうかのように、カエルの後を追って這って行って、落っこちる。そしたら二本足で歩きだした。
人間の定義を二足歩行に求めようとする人も大勢いるくらいですから、これはかなり象徴的なシーンだと思われます。


こんな風にこの作品を考えていくと、宮崎駿高畑勲の遺作は非常によく似ているのが分かるのですが、

こちらは『風立ちぬ』のサナトリウム描写にチョウチョの脱皮のイメージが重ねられていることについて書いた回です

今になってふりかえってみると、サナギがチョウチョになるイメージにより執拗に自覚的にこだわっていたのは高畑勲の方で、宮崎駿はかなり無意識的にやっていたような気がします。

かぐや姫の物語』を見ることで、走馬灯のように過去の高畑作品が頭の中を駆け巡るのですけれども、それと同時に宮崎作品の『トトロ』や『千と千尋』を思い出させるシーンもたくさんあります。
これは、高畑勲宮崎駿をまねたというわけではなく、
もともと二人で一緒に作品作っていたんですから、多くのものを共有しているのだという事に気づかされると同時に

監督、作画監督、は確かに重要なのでしょうけれども、映画って一人でとるものではないですから、多くの人が本気出して一緒に仕事しているとジブリ文化とか東映動画文化的なものができてしまうのかもしれない、と思いました。

かぐや姫って 昔々あるところにいたそれはそれは美しいお姫様なのですが、
こうしてジブリ作品になってしまうと、やっぱり、ナウシカみたいな顔になってしまうのはジブリ文化といったところでしょうか。