『かぐや姫の物語』

婚約申し込んだ公達の五人目が落下死する辺りまでは、とんでもないレベルの傑作だったんですが、

その後の展開の説教臭さと陳腐さには鼻白みました。


死期の近づいている人というのは、困った存在なのだな、宮崎駿よりも年上なだけにその分より困った人なのだなと感じ入った次第。


最近、あんまり画面の進行方向にこだわらない作品ばかり見ていたので、すっかり映画の見方が鈍っていたのですが、
かぐや姫の物語』には、非常に強い画面の進行方向があります。


方向への動きが 非現実を志向し
方向への動きが 現実を志向しています。

竹取物語は、非現実のファンタジーですから、『かぐや姫の物語』では物語が進展するという事は、非現実の方向に物語が深化していくということでもあります。

まず、宮本信子がナレーション担当という事で、『あまちゃん』好きの私としては、その時点でプっと笑ってしまうのですが、

その宮本信子が声を担当しているキャラの顔がデカく、またどことなくジムシーを思わせるのがおかしい。

そして、老夫婦が貰い乳に出向く時の進行方向が 
で、母乳が出ることに気づい手からの進行方向は 方向に切り替わります。

常識的なことが起きる場合は、画面が → に動き   非常識なことが起こる場合は ← に動くといってもいいでしょう。

ハイハイしてる赤ん坊のかぐや姫が縁側から落っこちる方向は → ですが、
ぐんぐんと体がデカくなっていく方向は ← です。


この映画の方向操作の非常に興味深いのは、この常識的 と 非常識  もしくは 非現実と現実 が かぐや姫の立場によって切り替わってしまう事です。

かぐや姫は、田舎娘から 都のお嬢様になり、 それから都住まいの噂の美女になって、 最後は月の人になる という具合に、変化していくのですが、


田舎娘で瓜をくすねていたかぐや姫にとっては、都の生活は非日常で非現実的ですから 都へ向かう道筋は ← 側です。

そして、都会の生活に慣れ、田舎暮らしができない身分になってしまった後には、田舎の生活の方が非現実的で非日常的なものになってしまいますから、牛車で田舎遊びに出向く時の方向も ← 向きです。

ある種の単純な映画の画面の方向の割り振りだと、

田舎← →都会

という具合に あたかも舞台演劇の上手下手のように左右を決定してしまう監督・編集の人もいますが、

かぐや姫の物語』では、あくまでも主人公の主観によって画面の方向付けがなされており、
それが、映画が無意識に漂わせる説教臭につながっているのですが、


ですから、田舎に住んでいた時のかぐや姫は 都会とは逆の →向きの時、より幸せそうに見えますが、

都会に出てからのかぐや姫は、都の生活から見て非現実的な自然にむかう ←の時より幸せそうに見えます。


まさに裏庭という言葉がふさわしい場所。
月の仏たちに見守られ、かぐや姫の行く先々には次々と奇跡が起こり、それは周囲の人々を驚かせ夢中にさせるのですが、

本当は、こういうしょーもない雑草が彼女の一番のお気に入りでした。


おそらく、それってジブリの方々の人生そのものなんではないでしょうか。
人並み外れた才能によって、だんだんと窮屈な立場に追い込まれていき…云々




時として、→ と ← の方向がうやむやになる高揚感溢れるシーンがいくつかあります。
おそらく、これが最後の作品になるだろう高畑勲の遺言のように感じられてしまうシーンです。

この世の中そのものが大いなる不思議を宿しており、人間もその一部である、
おそらくそういう説教なんだと思いました。

同様に左右の方向がうやむやになるシーンとしては、捨丸とかぐや姫が一緒に飛ぶシーンですが
最初は → 方向に飛んで、いい感じなんですが

← 方向に飛び始めると 月に見はられて捕まるのがなんとなくわかります