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『桐島、部活やめるってよ』 の原作について

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

このあいだ、読んだんですが、

映画とは、かなり違います。


映画見て満足したんだったら、まあ、読む必要のない小説なんですが、




このブログで再三再四述べている内容、

音楽とか、構図とか、カットのつなぎとか、役者の着ている服の色とか、役者が右か左のどちらを向いているかという事は、

ほとんどの観客にとっては無意識的にしか受け止めることのできない、注意の焦点から外れた情報です。

こうした、無意識的に受け止められる情報を利用して、観客の心理を特定の方向に導くのが映像作品のテクニックなのですが、

特に、こうした注意の焦点から外れる情報をもってして、
登場人物たちの無意識的な心理を表現して、

登場人物と観客の無意識の部分に共通性を持たせてしまおう、というのが 非常に洗脳めいた映像のテクニックなのですが、



小説の場合、特に ぼく、わたし、おれ で語られる一人称の記述の場合は、
主人公は、誰よりも繊細で、物事のすべてを知覚し、非常に澄んだ認識を周囲に対して持っている、という事にしておかないと、書きようがありません。

そうだから、自分は誰よりも繊細で、誰よりも物事が見えていて、云々とうぬぼれている人たちが小説を読むことになります。
自分はボンクラだから世の中の事ほどほどにしかわからないよ、と思っている人は小説を手にしようとはしないんですね。

基本的に、小説は映画と違い、登場人物の意識の流れを読者に説得力持たせることが勝負なのでしょう。





わたしは、散歩が苦にならないのですが、それは、歩きながら物事を考える習慣がついている、
ある意味、小説の一人称的語りをやることに慣れている人間でして、
それゆえ、このブログのように、書こうと思えば、即座に数千語数万語がかけてしまうのですが、


散歩、嫌いな人っているんですね。それにテレビ見ているとき、ひたすら受動的に見ているだけで、何か見つけたとか、何か考えてたとかそういう事のほとんどない人もいるわけです。

では、そういう人はまったく頭の働きが止まっているのかというと、そういう訳ではなくて、
小説の一人称的語りではなく、文字化しにくい意識の流れがあるはずなのですね。

小説読みなれている人や文章書きなれている人でも、すべての意識の流れが文字化できないことは実感としてわかるのではないでしょうか?



桐島、部活やめるってよ』ですが、小説だと、当たり前と言えば当たり前なのですが、東出昌大の役はひたすら自分の意識の流れを活字で説明します。


ある種の内向的で冴えない人間だったら、自分がリアルの世界で劣勢であることを補償するかのごとく、言語による欺瞞の意識の流れを作り出したりするのかもしれないですけれど(三島由紀夫の作品でしょうか)、

映画の東出昌大についていうなら、思っていることのすべてを言語化して意識の流れ作ったりするような男にはみえない、という感じがします。


大体のところ、役者って、頭の中で役の心情を言語化してどうのこうのという手法で演技してない場合の方が多いでしょうから、
自分の気持ちを言語化していないように見えるもんなんでしょう。



小説が、心のつぶやきを文字化して無理やり読者に押し付けようとし、窮屈なのに対し、
映画は、そういう押しつけがましいことをせず、裏でこっそりと無意識どうしを繋げようとしてるわけでして、

映画の方が気軽にリラックスして楽しめると同時に、洗脳的であるのは仕方がないのかもしれません。