この映画、原作があるようでして、
- 作者: 前田司郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2013/10/18
- メディア: Kindle版
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監督で脚本の前田司郎みずからによる原作ですから、
小説とは別のことやろうと、映画では構成をこねくり回したのかもしれません。
小説読んで映画のよくわからなかったところを補うと、前田司郎が何考えてこの映画を作ったのかはよりはっきりするのでしょうけれども、
これは私の考えですが、
映画を作った人を理解することと、映画を理解することは、微妙にずれています。
ここしばらくは、映画を理解することを主として原作無視しておきたいのですが、
意図したことが伝わらず、誤解される。
これは映画や小説にかかわらず、日常の会話でもそうでして、
「俺、そんなつもりで言ったんじゃないけどね」なんてことはいくらでもありますし、
誤解されたはずだったのに、よくよく考えてみると、実は内心では自分はそう思っていたかもしれない、なんて気づくことも多々あります。
『ジ、エクストリーム、スキヤキ』
映画製作の費用が下がったこと、シネコンが全国津々浦々にできてスクリーン数が余っていることから、
本来、映画として企画の通らなかったようなものも制作公開されるようになったのでしょう。
いろんな点で無茶な映画だなと思うのですが、
飛び降り と 昔の仲間とつるんで海に行く のは 時系列的にどちらが先か? なのですが、
編集で、この点を分かりにくくしています。
井浦新も前田司郎も、飛び降りて死ねなかった後に昔の仲間とつるんで海に行った、と思ってるようなんですが、
ほんとのこと言うと、そんなん、映画観てるだけでは分かりません。
というか、映画を見ているときには、分かりません。
映画を観終わってからしばらくたって、「あの映画って何だったんだろう?」とだんだんと何かが分かってくるような気がします。
映画を見るという行為は、見ている間だけで完結しているのではなく、その後映画について考えることで初めて完結する、
もしかすると、どれだけ考えても映画の意味や印象が落ち着かないのでしたら、結局完結しないままなのでしょう。
どっちが先なのか、を決める要因は、
・あの高さから岩の露出している地面に飛び降りて、無傷で済むわけないだろう?それに灰色のダウンジャケットボロボロになってるじゃない。
大川に洞口が会いに行ったとき、服はきれいだし、怪我の治療の後もない。
だから、旧友とつるんだ後に飛び降りた、と考えることは十分可能です。
・市川実日子がダッシュボードに入っていた本、とそこに挟まれていた写真をもって帰ったはずで、
飛び降りた洞口が車に戻ってきて、その写真を手に取り、携帯で誰かに電話して…
写真と本が車の中にあるということで、編集で時系列いじっているだけで、
自殺が先 海に行ってスキヤキ食うのが後 と解釈するのも十分可能です。
要は、
服がどうのとか怪我がどうのという日常実感的なことを優先してストーリーを自分の中に作り上げるのか、
それとも、
映画や小説が時系列をいじって劇的な効果を上げることは常套手段であり、この映画の中では服とか傷とかよりも 過去の写真の方を大切に扱っているらしいことからストーリーを作り上げるのか、
という事なのでしょう。
普通は、これ映画なのですから、映画的な常識を私たちの日常の常識よりも重要とみなして、
自殺未遂の後、旧友とつるんだ、と考える方が妥当なのでしょうが、
正直、そんな映画的常識に付き合うことが、めんどくさい。
この映画、ほとんど説明有りませんし、ストーリーもほとんどありません。
洞口が大学の友人と15年連絡を取らなかった理由、峰村という人物には何があったのか?という事も、映画観てるだけでは、説明無いんですよね。(どうやら自殺したらしいんですが、それについてはっきり言及したシーンってあったんでしょうか?私には気が付きませんでした)
そんなんだから、映画が映画特有の理屈によって成立しにくく、
この映画の外部要因に引きずられたまま、この映画を見てしまうことになります。
11年前の『ピンポン』の同窓会に出席しているような感覚に囚われてしまうのですね。
もしくは、
『ピンポン』のパラレルワールドとしての後日譚なのだろうかと思うてみたり。
『ピンポン』で飛び降りたのは窪塚でしたが、『スキヤキ』の方ではアラタが飛び降りてます、けど
現実で飛び降りて死ななかったのは、窪塚の方でして、
そういうこと、つらつら考えながら、この二人、何思いながら演技してるんだろうか、8割がた素で演技してるんじゃないか、とか。
飛び降りが先か 旧友との再会が先か について、映画があいまいな形ではっきり語らないのですから、
それは、つまり、
どちらが先かについては、見ている側もはっきり決めつけないほうが正しいのだろう、私はそんな風に考えます。
そしてそのあいまいさにイラついてしょうがないという観客には、
実は、旧友とつるんでスキヤキを食べるというのは、死にかけた男の妄想だった、という
二つの状況は平行線をなしている説がとっつきやすいのでしょう。
わたし的には、三つめの 妄想、パラレルワールドの解釈が一番面白いと思います。
その解釈のほうが、仏像のエピソード生きて來るように思えます。
わらしべ長者みたいなエピソードなんですが、
スケーボー持って出かけたら、それなくして、代わりに仏像を買って帰る。
後日仏像返品して、代わりにスキヤキの鍋買って帰って来る。
歩かずに移動することのできるスケボー。
これを足のない幽霊の状態の比喩と仮定すると、
この世に名残りをとどめた幽霊が、成仏するために仏像購入したのだけれども、
成仏することを思いとどまり、
生命の象徴であるスキヤキ鍋を携えて現世に戻って来る、
そんな風に考えると、自分の中の理屈の整合性がとれるような気がします。
洞口の飛び降り自殺についてもほとんど説明がないのですから、
観客は、終盤に至るまで 飛び降り自殺と 旧友との再会との間にどんなつながりがあるのかさえ分からないまま、
非常にアホで魅力的な駄弁りに延々とつき合わされます。
彼が飛び降りた後にどうなったかという事にしても、暗い中でほとんど動かないシーンもありましたから、少なくとも一昼夜は気を失ったままか動けない状態だったのでしょう。
そんな瀕死の男が見た妄想だったとすると、
仏像のエピソード、さらに言うなら、とことん頭の悪そうな会話にもちゃんとした居場所があるような気がしますし、
ときどき、しらふに戻ったように知的な声になる井浦新。
この映画の為に相当太ったのだろうか?非常に小汚いおっさんになっていた。私の知り合いの自営業の中国人に、こんな脂ぎった風貌の人がいる。
なんだ、結局夢おちかよ、とがっかりされた方もいるかもしれませんが、
しょせん、映画もドラマも小説も、全部作者の妄想であり、そこにスタッフがのっかったものにすぎません。
結局、すべての物語は、夢オチ、そう思って構わないと私は思います。
飛び降り自殺を試みた男
上司の葬式に行った女
もうすぐ死ぬ女のアパートに居座っている男
三人をつなぐおそらくこの世にいないはずの男 峰村
痛みにこらえながら洞口が電話をつなげようとした人物は、その峰村ではないのだろうか?
ほとんど何も起こらない物語の中にブラックホールのように存在する登場シーンのない人物は、この物語の核心であって、そこに対してのなんらかのアプローチがないのは、変なんじゃないか、物語構成としては弱いのではないか、そんな風に私は思います。
では、そういう風に観客を誘導するための手がかりをぽつぽつと落としていけば、映画はもっと素晴らしくなるのか?どうなのかというと、
この映画の素晴らしさは、あくまでも、役者の愛らしさと 決して直接つながることのない『ピンポン』の続編という特権的立場なのでしょう。
似てる似て無いじゃく、話つながってないし登場人物の設定も違うし、松本大洋の了承得てないだろうけれど、『ピンポン』の続編だと思います。
『あまちゃん』の続編を作るのだったら、こんなやり方でいつか作ってほしいと思う次第。