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黒澤作品のワーストについて考える  第八回  『どん底』

『どん底』というタイトルで、黒澤のワースト作品だったら面白んでしょうけれど、

この映画、話が暗くて敬遠される点を除くと、黒澤でも良作の部類で映画です。

 

この作品の二年前に、音楽監督の早坂文雄が死去し、蜘蛛の巣城から赤ひげまで佐藤勝が音楽を担当しました。

 

二人の音楽をちょっと比べてみますと、

早坂文雄 『七人の侍


Akira Kurosawa--Music for Film: Seven Samurai ...

よく言えば、「次に何が出てくるかわからないワクワク感。そしてよどんだ深みを感じさせる」

悪く言えば「わかりにくい。たるい。」

 

佐藤勝 『用心棒』


Akira Kurosawa--Music for Film: Yojimbo - YouTube

よく言えば「素晴らしく機能的でキャッチー」短い間合いのBGMとしては、こちらのほうが名曲。

悪く言えば「CMソングみたいで底が浅い」

 

ちなみに『七人の侍』の歌もの。

『スキャンダル 醜聞』の主役山口淑子のヴォーカルヴァージョン。作詞は黒澤本人。


Akira Kurosawa--Music for Film: Seven Samurai ...

 

黒澤は早坂文雄に全幅の信頼を抱いていたようで、

二人で「映画とは演劇や絵画、そして文学よりも、音楽に近い」と確認しあった仲だそうです。(これ西村雄一郎氏の本に書いてありました)

そして、黒澤が新進の映画監督のうちにコンビを組んだ早坂文雄と比べると、

佐藤勝のほうは、すでに黒澤が、世界の黒澤になってからのコンビで、二人の間に上下の関係がある、そういう感じです。

それゆえ、黒澤の注文通りに職人的に音楽を作っていったのだろうと思うのですが、

それが、この時期、黒澤が開き直って娯楽映画を連発していたのと重なっているように思われます。

 

 黒澤明早坂文雄がいなくなってから

あいまいなものを残しても、最後に音楽監督がいい感じに作りなしてくれる、

そういう思いが一切なくなり、

自分でコントロール仕切れるものしか作らない、そういうのがあったのかもしれません。

 

『どん底』は音楽監督の交代から二本目での作品です。

私は暫定的に「黒澤ワーストは『白痴』ではなかろうか」と思っているのですが、

その映画の撮影中に小道具のナイフで首切ろうとしたとか、そういう逸話があるそうなんですが、

『どん底』は暗い映画ですけれども、自殺未遂するような思いしながら撮った映画だろうか、というと、違うんじゃないか?という気がします。

 

 



長屋とその外側だけセットで作り、舞台演劇のようにけいこを重ねて、カメラ何台も使って短期間で取り上げた作品だそうです。

それで、黒澤映画の特徴である画面の意味深な流れがほとんどなく、ひたすらどこにも動けない画面進行なのですが、それがどうしようもない最底辺の人間の運命の比ゆになっているようです。

でも、まあ、

『どん底』っうことなんですけど、この貧乏長屋、

汚ねえなあ、うるさいな、バカ多いなあ、とは思うんですが、

ほんとんそこまで悲惨に見えるかというと、まあ所詮映画ってヤラセですから、結構楽しそうに見えます。

途上国の貧困層って、もっと救われない暮らししてますし。

 

 上にあげたヨウツベは、ラストの踊りなんですが、

ビートたけしの『座頭市』って、これ参考にしてないか?と思ったりもします。民衆の生命力をこういう形で表現したかったらしいんですが、おそらくビートたけしのほうもそうなんでしょう。

 舞台演劇に近い映画と言えるのですが、舞台で演じることって体力使います。

数秒間のカットを編集でつないでモンタージュで意味を含ませる映画とは違い、本当に貧困で健康持ち崩したような人って舞台で演技でいないですも。

そりゃ、どの方も元気で健康に見えてしまいます。

 

何はともあれ、楽しそうに見えるというのは、この人たち金はなくとも仲間はいるわけで、怒鳴りあってはいますが、腹に一物抱えながら機を見ては後ろからさしてやろうという人間関係ではないです、はい。

香港のゲストハウスに行くと、ここまで貧乏ではないですけど、似たような状況って簡単に体験できますし。

 

 

長屋の一人が、首つったって知らせが入って、

それに対し、「せっかく盛り上がってるのに、水差しやがって」みたいな台詞でこの映画は終わるのですが、

 

その台詞、今後しばらくは娯楽作品監督としてガンガン仕事していくぞ、という黒澤明の強がりというか決意表明のように思われなくもありません。

映画に必要なのは悩むことよりも娯楽だろ、そういうことなのかもしれません。

 

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最底辺売春婦が、妄想上の恋人と心中したい望みを仲間に話す場面。絵にかいたような後ろ向きの構図です。ほぼみんな ← 方向を向いています。

 

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こちらの絵にかいたような前向きな構図と比べると、顔の向きが見事に左右対称。

 

映画の進行方向は  なのですから、映画のゴールは向かって右側にありますし、主人公はその方向を目指します。

だから、希望の光の差し込む窓は、常に向かって右側。

これは黒澤作品のお約束事となっています。

この画面進行方向に関しましては、映画が抱えるお約束事 - (中二のための)映画の見方の回についてまず読んでいただきたいところです。

 

 

まあ、しかし、最底辺売春婦がこんな美人だってのが説得力ありません。病気でも持ってるとか頭おかしくなってるとかの不可設定ないとさすがに無理です。

そして、売春婦が「ちゃんとした恋人から、お前の身体は穢れていない」と言われる設定は、遺稿となった『海は見ている』そのまんま。

 

黒澤作品の脚本は社会問題を一つ物語の中で提起し、それに登場人物をどうかかわらせていくかがポイントなのですが、

その社会問題として、貧困のことが何度も何度も取り上げられました。

だんだん日本は豊かになっていき、貧困の問題にリアリティーが薄れていったのですけれど、『海は見ていた』でもやはり貧困が取り上げられていました。

また、大部屋の安宿に貧民がたむろしての人間模様といいますと、


After the Rain Japan Samurai Movie 雨あがる Ameagaru ...

これもそうでした。

『雨あがる』は黒澤ゆかりの役者とスタッフで黒澤の遺稿を映画化した作品ですが、

まあ、

同窓会は仲間内だけでしてくださいレベルの愚作でした。