ソ連・ナチの映画って、大衆の洗脳のために使われたんですが、
それ以外の国はどうだったか、それ以降の時代ではどうだったか、というと、
実のところ、映画が洗脳的であるというのは当たり前のことであり、
それゆえに、映画の評価が、政治的に右であるか左であるかによって大きく左右されてきました。
左だったら星二つプラス、右だったら星三つマイナス、
左翼がかっこいいと思っている評論家にとっては、いまでも映画の評価とはそういうものです。
そして、わたくし、つい最近まで思っていたのは、
今どきの観客がソ連やナチ時代じゃあるまいし、そんな簡単に映画の政治思想を真に受けますか?
ということなんですけれども、
これ、少なくとも中国に関していうならば、
あんまり人間って進歩していません。
「日本人は中国にひどいことしたよね。だって映画で見たもん」
中国で量産されている抗日映画、カンフーで日本軍を蹴散らした的な荒唐無稽な作品を別とすると、割と容易に中国人は映画の中のことを本当のことと信じています。
また、左翼の抽象的映画というのは、映画自体が訳わからないですから、まともな評価の対象にならず、その背後にあるらしい政治思想だけが論点になるというものだったりします。
映画は洗脳的であり、場合によっては政治力を持ちうる。
そういう点から、
張芸謀のここしばらくの作品は、わたしには評価の対象にはなりえません。
彼の作品を映像技術の点からみること、観客を共感心させる力量の点から冷静に見ることが今の私にはできません。
張芸謀、昔の作品は好きなんですが、
スピルバーグが顧問から辞退したオリンピックの開会式の演出、日本とドイツからだまし取った新幹線のPV、
南京大虐殺についての作品や、次回作が伊藤博文を暗殺した安重根についてのものだったりします。
開き直ったプロパガンダ監督になってしまいました。
映画を政治的な観点から評価する、それは馬鹿らしい態度だと今も私は思っています。
だって、そうすることにより、年間ベストテンには政治的映画が上位に並ぶことになり、娯楽作品は無視されることになるからです。
しかし、
映画の説得力、無意識に働きかける力、そして一見娯楽作品の皮をかぶって一般人に特定の偏見を植え付けかねないことについて考えますと、張芸謀のような監督は不愉快極まりないのですね。
プロパガンダ映画について客観的にみられるようになるには、その映画が公開されてかなりの年月を経ないと難しい、と私は考えます。
『一番美しく』冒頭に挿入される戦時スローガン。
まあ、中国だけでなく、日本でも小さいスケールながら右左両派のプロパガンダ的映画はいまだにいくらでもありますし、
戦争期には公開された映画は大概プロパガンダだったりします。
黒澤明の師匠山本嘉次郎は『ハワイ・マレー沖海戦』という第一級の国策映画を監督しましたし、
黒澤明自身にも『一番美しく』という戦中期のプロパガンダ映画があります。
既に戦後70年ですから、私たちは客観的にこの映画を見ることができるということにしておきましょうか。
Ichiban Utsukushiku (The Most Beautiful) Trailer ...
本来はもっと派手なプロパガンダ娯楽作品が作られるはずだったのが、戦局の悪化により軍需工場で働く女子挺身隊の物語に変更となったようですが、
プロパガンダとしてどうよ?という感想を持ちますし、
憂鬱な戦時下の気晴らしとしては、有効なの?という感想もあります。
いったいこの作品は何なんだ?という感じで、もしかすると黒沢作品中の一番の珍品かもしれません。
軍需工場でひたすら頑張る女の子群像、
女の子のスポ根と似てるなあ、アニメの『エースをねらえ』とかが近いんでしょうか。
でも、『エースをねらえ』の場合ですと、コーチと主人公の恋愛になりきらない心のやり取りがあるのですが、
この『一番美しく』にはそういう甘っちょろいエピソードはありません。
ただひたすらお国のために、戦地で戦う兵隊さんのために頑張る女の子たちがいるだけです。
女の子の群像劇でありながら、色恋沙汰によって物語に起伏をつけていくことをしていません。
女の子たちがキャッキャ言っているのをただ遠目でニタニタ観察して楽しむ、そういう趣旨の映画に見えなくもありません。
卑近な例でいうと『けいおん』でしょうか?
そして
ここまでストイックな女の子たちを見ていますと、戦場の兵士の比喩のように見えてきます。
黒澤明は女性の描写については得手ではないと言われ、本人もそのことを気にしていたそうなのですが、
この作品には、どろどろした内面女って出てこなくて、どの娘もみんな爽やかでいい娘です。
そして、それがダメなのか?と言いますと、
女子の勤労部隊を題材に戦場の兵士のありようを描いた作品としてみるなら、それなりによくできているように感じられます。
作中で仲間が病気で実家に連れ戻されたり、屋根から落ちて骨折したりするのですが、それが死傷者を常に抱えざるを得ない軍隊を連想させます。
まあ、職務中の死亡は軍隊に限ったことではありませんし、また軍隊でもいくさがうまくいっている時には死傷率は低く抑えることができますので、
人間組織ってどれでも多かれ少なかれ軍隊の比喩に使用できるような気がします。
黒澤明作品はこの時点でも、ハリウッド映画並みに実に骨太に明確に→の画面進行方向が読み取れます。
どうして黒澤のフォロワーがアメリカに集中しているのかについては必然といえるでしょう。
(この画面進行方向に関しましては、映画が抱えるお約束事 - (中二のための)映画の見方の回についてまず読んでいただきたいところです)
→の画面進行方向、つまり進むべき道は→側に見いだされるのですから、黒澤作品では希望の光さす窓は常に→側にあります。
女の子たちは、光学機器工場で勤労奉仕しているのですが、その製品、照準器、望遠鏡などのチェックの際に遠くを見る場合も→側に統一されています。
あたかも、これら機器で遠くを見やる行為がこの映画を象徴している、つまり戦争という現実もしくは女子工員の日常を突き抜けたものを描こうとしているように感じられなくもありません。
そして、何度も挿入される鼓笛隊のパレード。プロパガンダ映画内のプロパガンダ行為なのですが、このパレードの方向は←向きに統一されています。
軍隊の行進を模したのがこの鼓笛隊パレードなのですが、それを←向きで描くということは、
この映画は戦意高揚を目的とした企画であるのですが、黒澤的にはもっと普遍的な人間像を描きたかったらしいことが見て取れます。
まあ、作品時間も短いですし、いろいろと制約のある中での映画ですから、なかなかただしく評価するのは難しいですね。