オマージュって、だから何? ( あまちゃんと衣装のカラーコーディネートが同じ?知らねえよ! 『ハードナッツ』 7話 ) 

映画におけるオマージュ、この話題、わたしずっと気になっているのですよ。

何度かこのブログでも触れたことがあるのですが、ちゃんと考えてみたいんですね。


よく映画評論家で「どこそこのシーンは、何々の映画へのオマージュ」みたいなことを言う人がいます。

そして、「どこそこのシーンは、何々の映画へのオマージュ」であることを、知らない「映画リテラシー」の低い人に解説してあげるのが映画評論家の仕事、と考えているような方もいらっしゃいます。

私がそのような言いぐさに出くわした時の違和感、
「オマージュって、だから何? オハラ洋装店だから、風と共に去りぬ知らないと『カーネーション』理解できないってか?知らねえよ!」
そんな感じでしょうか。

そして、「どこそこのシーンは、何々の映画へのオマージュ」みたいなことへの私の違和感の源泉というのは、
それ指摘した人が、それ以上話を深めようとしないのですね。

オマージュだ

でも、オマージュってどういう意味があるんですか?という事にはなかなか触れようとしないんですよ。



カーネーション』より

男勝りの女性主人公が戦争を挟んだ困難な時期を乗り越えて強く生きていく、という風に要約してしまえば、
風と共に去りぬ』と『カーネーション』は同じです。
(というか、『風と共に去りぬ』と『カーネーション』のストーリーの最大公約数を抽出すると、「男勝りの女性主人公が戦争を挟んだ困難な時期を乗り越えて強く生きていく」ということになります)


そして、コシノ(小篠)という苗字をオハラに変えて『風と共に去りぬ』ににじり寄らせたかったというのは、製作者側の内輪の事情であり、
私から見ると、割とどうでもいいことだったりします。
そして、『風と共に去りぬ』を知らなくても、『カーネーション』は十分にすぐれた作品であり、
寧ろスカーレットよりもオハラ糸子のほうがはるかにましな女性に見えます。

正直、スカーレットは映画史上人間的に最悪のヒロインであり、スカーレットに求婚されるくらいならシガニーウィーバーに火炎放射器で焼き殺されることを私は望みます。

だから、あまりにも『風と共に去りぬ』と『カーネーション』の類似性を強調することは、『カーネーション』の足を引っ張ることになりかねない、と私は考えます。


この類の内輪ネタというのは、知らなくても大した問題にならないから小ネタ的に提供されるわけであり、作品理解とはあまり関係なく、
それよりかは、制作陣がどのようなことを考えていたのかの方を示しているように私には思えます。

そして、作品を理解すること、と 作品を作った人を理解すること、は どうも微妙にずれているらしい、

もとい、
作品を理解すること は 古今東西、 映画においてはどうでもいいことだった、
作品の存在意味というのは、観客が決めることであり、それは理解しようとしても無理、
時代の流れの中に、作品は勝手に居場所を見つけてそこに居座ってしまう。

ただ、それと比べると、作った人が、何を考えていたのかについては、細かいところを突っついてみると、かなりはっきり分かるような気がしますし、
それをどうやって解析するかについて、画面の方向とか色彩とか 唖然とするくらい単純な理屈で画面上に示されている、
わたしは、そういうことを再三ここで書いてきております。



例えばですが、
あまちゃんのラストで


ビートルズがやって来る、ヤァヤァヤァ』 と似ているとか



テルマ&ルイーズ』のまんまの画面 とか

そういうに気づく人って、ほとんどいないんですね。

評論家とか業界人でも気づかない人がほとんどで、
それゆえ、つまり、映像を作った人の心なんて、99%以上の観客は理解していない、と私は結論づけてしまいたくなるのですが、


そのような状況でも、過去の映画から引用してしまうのが、作っている人たちのようです。

そして、引用するという事は、必ずしも過去作品へのリスペクトや、本歌取り的な意味の重層化ではなく、

ワンカットを一単語とみなして映像という文章を組み立てるという、

私たちが会話の場で日々行っていることと似ているので、
こういう映像の組み合わせ方というのは、映像作家にとっては息を吸ったり吐いたりするのと同じくらい自然なことなのではないか?そんな気がしてきます。




それで、やっと『ハードナッツ』の話に至るのですが、
『トリック』や『ケイゾク』が好きだから見ている人もいるでしょうが、

あまちゃん』経由で見ている人が一番の多数派なのではないでしょうか。

私も場合は『トリック』大好きで『ケイゾク』はまあOK、橋本愛は超絶美少女という認識で、高良健吾を若手男優のホープとみなしており、ついでに大の『あまちゃん』ファンという、この番組企画者には願ったりかなったり的な人間だったりします。

まあ、それゆえ、うるさいこと書くんですが、

ハードナッツ』第7話、
この番組の視聴者のマジョリティーは 朝ドラ経由という事を表明したような回でした。


秘密組織の名前が「じぇじぇじぇ


ごちそうさん』の大村先輩も出てきます。

そういえば西門公園という名称が出てきます。


そもそも『あまちゃん』の橋本愛と『おひさま』の高良健吾が主演ですから、
朝ドラネタが披露されると、朝ドラ経由で見ている人たちは、身内扱いされてるみたいでうれしくなってくるんだろうとは思うんですが、


ハードナッツ』で、一番の朝ドラねたというのは、
橋本愛の衣装のカラーコーディネートが『あまちゃん』譲りだという事。

第五話

あまちゃん』OP

高良健吾出演作の『おひさま』を持ち出すまでもなく、
朝の連ドラは、太陽をイメージさせるさわやかな作品を作ることがお約束事となっている。

画面上でジャンプする能年玲奈のバックの色彩、ピンク色と水色でつながった円は、海から昇る朝日を表したものであり、
能年玲奈の上半身の黄色と白は太陽の光、下半身の青は海の色を示しているらしい。

そして、この画面が示した強烈なメッセージの臭みをとるかのように、作品中に朝日が昇るシーンはほとんど出てこない。
三陸海岸は、海から昇る朝日を見ることのできる景勝地であるにもかかわらず、



ユイちゃんにとって二回目、アキにとっては一回目の家出が失敗に終わった後、観光協会で家出の理由について問い詰められる。
この時、ばっぱら海女クラブの会員が押し寄せてきて二人の東京行きをみんなに了承させてしまう。

そして、その時のアキの衣装はOP、そして最終回のラストと同じもの。
さらには、ユイちゃんとアキの心が表裏一体であることを示すように、二人の服のカラーコーディネートは、白と黄色。

ハードナッツ』のくるみの衣装は、あまちゃんのこの回を引きずっている。

また、黄色が太陽の光を思わせることから、主人公が黄色を着ることが朝ドラのお約束事化しているような気がする。

カーネーション

『ごちそうさま』


さらに『ハードナッツ』の興味深い点は、
あまちゃん』では、橋本愛は海に飛び込むことはなかったのだけれども、
ここでは、海とは言わぬまでも、飛び込む、飛び込まさせられそうになるシーンが何回も出てくる。
あまちゃん』の名残のようなものなのだが、



それらシーンの基本カラーは 黄色と白。


ハードナッツ』第7話

悪党どもが選挙する建物に波岡一喜が乗り込もうとしたら、爆弾がさく裂。
この時 の橋本愛は、黄色いマフラー。

これは、もちろん、

ここからきているのでしょう。


トンネルが夜の闇であり、次に太陽が昇ることを信じてその闇を潜り抜ける。それが『あまちゃん』の色彩的なテーマなのですが、

この時のユイちゃんのカラーコーディネートでは、光を表す黄色が少々足りなかった。もっと光(希望)がなくてはこの闇を潜り抜けることはできなかった、そういっていいのではないでしょうか。

あまちゃん』第72話

アキが東京に出ていく場面。まだ自分を信じ切ることのできないアキに希望の光を与えるべく黄色い服を着ているのは母親の方。





あまちゃん』で何度も繰り返された飛び込みとトンネルのイメージ。
それらは、新しく生まれ変わる、という意味を伴ったゆえ 死の臭いがあった。 

ハードナッツ』第七話では、


黄色が死者と結びつくこととなる。




爆破のシーンで橋本愛に被害が及ばなかったのは、マフラーの黄色が薄かったから。



次回予告では

黄色と白で あまちゃんの最終回よろしく走るシーンがあるようです。
そして走った向こうには何があるのか?海か? 跳びこむのか? 今度こそ跳びこむのか?
跳びこんだ先には、高良健吾か?  それとも、続編を想定しているなら、その辺、じらしてくるんでしょうか?



で、こういうことは、本当に考えられたうえで制作されているのか、それとも単なる深読みなのかという事ですが、

このように、色彩やワンカットの画面を単語のようにして映像を組み立てていくことが当たり前になっているのが、映像業界の人、という風に考えてみると、腑に落ちる点が多いです。

外行のものにとっては理詰めて考えているように見えることを、深く考えずにさらりとやれるようになること、それが映像職人の手つきというものなのかもしれません。