食卓のある場所が家であり、そこに家庭があるのであり、
屋根が家なわけではなく、床下暖房が家なわけでもない。
食事と温もりと笑顔、それこそが家であり家庭であり、200万年前の原始のころからそうだったし、200万年後の未来もそうであってほしい。
おそらく『ごちそうさん』はそういうことを私たちに説教しようとしています。
『ごちそうさん』についてですが、
主人公が東京から大阪に引っ越してきまして、舞台が変わったのですが、
主人公が引っ越すのは、大抵の朝の連ドラのお約束事です。
そこで『あまちゃん』『ちりとてちん』と比べてみたいのですが、
『あまちゃん』も『ちりとてちん』のしっかりと現地ロケを行い、主人公のふるさとをしっかり描きました。
それと比べると、『ごちそうさん』は大阪制作のドラマですし、東京は割とどうでもいいというか、これ、現代の物語はないので、主に明治村で東京の光景を撮影しました。
リアリティのある故郷としての東京って『ごちそうさん』には無いんですね。
そこが『あまちゃん』や『ちりとてちん』とは大きく異なる点です。
また、故郷と都会のセットの入り口に着目すると
『あまちゃん』『ちりとてちん』では
故郷のセットは基本が
こうであり、
画面の基本配置がこうですから、
『あまちゃん』『ちりとてちん』では故郷は帰るべき場所であり、帰ることで英気を養える場所という描写がやりやすいセットです。
それに対し都会のセットは、
このように作られ、都会の生活は目標を達成するためにがむしゃらに頑張らないとならない場所という描写がやりやすくなります。
それと比べると『ごちそうさん』の東京と大阪のセットですが、
基本的にどちらも
が主です。
主人公にとって、東京は別に帰るべき故郷として描かれている訳ではないのでしょう。
そして、祖母が死んだ後に糠床に転生し、のこのこ大阪までついてきていることを考えても、東京って故郷として描かれていないのですね。
そしたら、今後東京って『ごちそうさん』ではどのように描かれるのか?と考えると、この後関東大震災が来るはずですが、
わたくしの考えでは、おそらく主人公の両親は死亡、実家は焼失でしょう。
セットの組み方からして、東京は帰るべき場所ではないと表明している訳で、
それゆえ、震災で焼け残ってもしょうがないという気がします。
そして、震災で登場人物を一人も殺さなかった『あまちゃん』の反動で、今回の作品は殺しまくるんじゃないかという気がします。
これだと、大阪の家も戦争で焼失することになるのでしょう。
ついでに旦那も死ぬのかもしれません。
そして、旦那が設計した鉄筋コンクリートの小学校に逃げ込んだ人たちが何人も助かる、その人たちに食材を提供されて、戦災孤児への炊き出しを行っているシーンなのではないか?と私は勘ぐります。
家を帰る場所とみなしていない『ごちそうさん』では、どこに帰るべきと言っているのだろうかと、画面をチェックしてみると、
どうやらこのルールが重要なようです。
開明軒の厨房と客席の関係こそ、この逆ですが、
実家の厨房、西門家の厨房、西門父の家の厨房、親友が居候している喫茶店の厨房、は画面上向かって右に配置されています。
そういえば、
夜露をしのぐ屋根と床が家だと私たちは思い込んでいますけれども、
食卓と温もりと笑顔があれば、本当ななんとかなってしまうはず、
OPの画面もそんな風に視聴者を説得しているように見えてきます。