日本映画はガラパゴスの続き
…このように映画の構図を分析していきますと、
いろいろと、お約束事とでもいうべき画面を多多目にすることになります。
最近、わたしが気づいたお約束事とでもいうべきものが、
人にご馳走するシ―ンです。
『ごちそうさん』
ご馳走される人は、画面の向かって右側に来ることが最近の日本では 「お約束事化」しているようです。
いつからこのようなことが始まったのかは、わたしには今のところよくわかりません。
あてずっぽうな意見ですが、グルメ漫画の興隆に端を発したものかもしれません。
単に、人にご飯を食べさせれば、それで必ず、食べさせられる方は、画面向かって右側に来るのかどうなのかというと、
そういうわけではなく、
『ごちそうさん』
夕食の際に義理の姉の愚痴を聞かされる旦那。
ごちそう食べてるというよりも、愚痴気聴かされている重苦しさが先行しますので、
食べさせられている人が、画面の左側になります。
ご馳走される人は、画面の向かって右側に来る
どうしてこういう事が起こるのかというと、
日本においては、映像作品の画面はこのように構成されるからです。
うち、というのは、家の内側 家の奥の方 という文字通りの意味がありますし、
観客にとって、より共感できる立場の人という意味で、内側の人という意味でもあります。
赤側には、観客にとってより共感しやすい人物=主人公が位置するのが基本です。
青側には、観客にとってあまり共感できない人物=敵、謎の人、主人公と対話する人物が位置するのが基本です。
そして、この理屈は、日本の伝統的舞台の上手、下手にほぼ一致します。
向かって左側の廊下から新参者が舞台に上り、舞台上の人物と出会います。
落語的にいうなら、オッチョコチョイが左からやってきて、ご隠居が右側にいるという感じでしょうか。
だから、舞台の右の奥に行けばいくほど、家の奥につうずるという事になるわけです。
どうして、映画において舞台の上手下手が踏襲されたのかというと、
映画のセット、特にテレビドラマのセットは、このように作られます。
片側に撮影機材が並び、あたかも舞台のようになっている訳です。
リアリズムを重視した映画の場合ですと、普通の民家やアパートを撮影場所に選びますし、セットを組むにしても360度の撮影に耐えられるように実物と同じ物を作ります。
それと比べると、特に朝の連続テレビがいい例ですが、
映画館の暗闇で見ることを前提としている映画は、画面が多少暗くてもあんまり問題ありません。だから陰影の幅の大きいのが映画なのですが、
朝の連続ドラマの場合、窓の外の朝の光と画面が競合するわけでして、画面がとことん明るくないとよく見えないんですね。
だから、強い照明を当てやすくするために、セットは、片側を開放した舞台と同じものになりがちです。
『ごちそうさま』 開明軒のセット
主人公の実家のレストラン。 入口は常に←側。
恐らく、このセットは片側が作られていない開放型で、
反対の方向からカメラで映すことができないんですね。
だから開明軒では、お客は常に←側ですし、
もてなす方は常に→側です。
現代のテレビドラマの画面上の立ち位置というのは、伝統演劇とは異なり、
その場その場において、より有利な立場を割り振られた人が 画面上の向かって右側に位置するようになっています。
舞台演劇とは違い、映像作品は編集という工程を挟みます。
画面の配置では →側不利 ←側有利 ですが、この有利不利の状況が刻々と変わるから、映像作品特有の心理描写が成り立っている訳です。
開明軒の内ではカメラはほとんどうごけませんが、開明軒の外側は、
このように別のセットが組まれているはずで、
普通に見ているだけだと、レストランの中と外が別のセットだという事に思い当たらない、
まんまと照明さんの技術に騙されている訳です。
外の方が広めのセットですから、入口の階段に座っている泰造を左右の両方向から映すことが可能であり、その左右の切り替えが、泰造の内面変化に対応しているとみているものには思われるのです。
実際、彼の演技も、無駄なことはせず、カメラの切り替えに従って唇のゆがみ具合を調整したりしている訳です。