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『ちりとてちん』 の菓子浩&井上剛演出について

あまちゃん』は、2007年秋の『ちりとてちん』のリメイクと言ってもいいくらい話が似ています。

なんでこんなことになったのだろう?という事に関していろいろ推理してみるのも面白いことですが、

それは、次回に譲るとして、


朝の連ドラは複数の監督が演出を担当します。

あまちゃん』で言うと、
井上剛がチーフ
サラリーマンNEO』の吉田照幸が二番手
あまちゃん』演出の在り方、それにセットの作り方は、恐らくこの二人があらかた決めてしまうのでしょうから


それ以外の監督にとっては、
次期のエース監督候補の腕試しの場だったり、
新人監督が経験を積む場だったり、

そして、プロデューサー候補生による現場理解の為だったりするのでしょう。


あまちゃん』で、明らかにどうでもよさそうな橋幸夫の週がありましたが、
あの週を担当した監督が、どうやら、プロデューサー候補生なのだろうか?と私は推理します。



そして、『あまちゃん』の元である『ちりとてちん』で言いますと、

井上剛が時期のエースとしてかなりとんがった仕事をしてました。
それに
あまちゃん』のプロデューサーの一人、菓子浩が二週間分だけ担当。


菓子浩のように、プロデューサーの仕事のために、現場の勉強のため演出を担当した人の回を見ていますと、
映画の教科書にそのまま書いてあることがそのまま丁寧に行われており、「なるほど〜」と思わされます。
NHKでプロデューサ―志望の人は、演出に関しては強い表現欲求がないのでしょう。

それと比べると、演出志望の井上剛の回は、表現者のサガのようなものが表に出てきており、これでは、プロデューサーのような調整役にはなれんだろう、となんとなく納得できます。




第五十三話  菓子浩監督

あまちゃん』でも、明白に行われていた、各セットごとの上手、下手の設定ですが、
ちりとてちん』のこの回では、すごくわかりやすい。

師匠が、弟子に、落語の稽古をつけているシーンです。



伝統的日本演劇の舞台は、向かって左側が下手で入口  向かって右側が上手で家の奥。

ですから、ぶらぶらしているオッチョコチョイの暇人が 向かって左側からやってきてご隠居の家の門をくぐると、向かって右側にご隠居が座っているわけです。

落語は、オッチョコチョイとご隠居を一人二役で演じるのですが、


暇人のオッチョコチョイのアホ顔を演じるとき  方向に顔を傾ける。



ご隠居の渋顔を演じるときには、 方向に顔を傾ける。


視聴者に分かりやすく、落語の基本中の基本を説明してくれます。

「それ上手と下手逆や!」と師匠から叱責されます。
アホ顔と渋顔の時の顔の傾け方が逆なのが見て、分かります。


落語は、このようにできていますが、
ざっくり言うと、映画の画面の左右の問題も、似たようなものです。

特に、いくつかのセットで半年もの間物語を煮詰めていく連ドラですと、
上手、下手で役者の立ち位置が決まる伝統的舞台劇と似通ってくるもののようです。


ただしかし、舞台劇と違って、
向かって左側が下手で入口  向かって右側が上手で家の奥
と強制的に決定されるものではなく、


それぞれのセットごとに、どっちにオッチョコチョイが座り、どっちにご隠居が座るかの決定の選択は、自由です。

落語の師匠の部屋に、主人公のおばあさんが訪ねてきた場面。

師匠宅では座敷の上座、つまり床の間を背にする方が 向かって左側になるようにセットが組まれており、
師匠は、ほとんどの場合、画面の向かって左側にいます。

これは師匠の書斎ですが、座敷にそろえるように、向かって左側が定位置。

そして、訪問者のおばあさんが 向かって右側。

これですと、伝統舞台の上手下手の逆です。



いったん、師匠とおばあさんの位置を 左と右 に決めてしまうと。

それぞれの人物をアップにしたときに、


もとの左右の関係が維持されます。





基本的に、一つの場面で、いったん決められた左右の位置は、その場面を通して維持される、と映像の撮り方の教科書に書いてあります。

そして、菓子浩プロデューサーは『ちりとてちん』で演出を担当したときには、その教科書通りの画面作りを生真面目に行っております。


どうして、このように左右の位置を一旦決めると、容易に動かしてはいけないのかというと、

今の作品ですと、カラーですし、音声もはっきりしていますから、どちらが師匠でどちらがばあさん化はすぐにわかりますが、


これが、80年前の白黒フィルムで無声だった場合、同じ服を着ている二人が対面しているとして、
どちらがどちらであるか、紛らわしかったりしないでしょうか?


恐らくそんな理由から、右側、左側でだれだ誰であるか識別しやすいように、位置を固定していたのだと思います。



そして、今の映画では、二人の人物の識別は極めてたやすいですから、80年前のサイレント映画の時代のように厳密にこの左右位置の問題、専門用語でいうところのイマジナリーラインの問題ですが、これについてあまり厳密である必要はないはずですが、

映像の基本として、それなりに拘束力を持っており、菓子浩プロデューサーのような人の作品の場合、この基本がよくわかります。


しかし、今の映像作品では、あえて左右の向きをひっくり返し、そこに意味を生じさせようとします。

第42話 井上剛監督

アル中で人生をすでに投げていた師匠が、再び落語家になるとき、主人公には故郷の塗り箸職人だった祖父の姿が重なって見える。


現在の映画、そして多くのドラマでは、単に場面単位で人物の左右の位置を決めているのではなく、
一つの作品を通して、左右の位置を割り振り、その位置が変わるときには、なぜその位置変換があったかの理由を示す。

そして、理由を示しはすれど、見ている側は無意識的にしかそれを察することができない。


だって、だれも、人物が左右どちらを向いているかなんて、気にして映像見ていないですから。


ちりとてちん』は福井県小浜と大阪の二つの土地で職人気質に生きる人たちを描いたドラマです。


大阪にいる落語家(職人)

基本的に 

小浜にいる塗り箸職人

基本的に 

そして主人公は大阪と故郷小浜の間を行ったり来たりします。
それはあたかも、落語家(職人)と塗り箸職人の二つの職人の間で自分の人生の在り方を見つけようとする物語なのですが、






いつも飲んだくれだった師匠がステージの上に上ります。

その時、師匠の落語のテープを死んだ祖父がいつも聞いていたことを偶然主人公は知り、


お爺ちゃんの姿が目に浮かびます。


そしたら、いつも 方向で飲んだくれていたはずの師匠の向きが、小浜の祖父と同じ 方向にさりげなく転換しています。

こうして、主人公は、自分が選択すべき人生の職業としての落語家としての道を見出すことになります。


舞台のそでから師匠を眺める主人公。
主人公の向き   師匠の向き

主人公が師匠と直接ではないけれども、対面している構図が画面上に出来上がります。

つまり主人公は、自分の過去と対面し、自分の未来と対面している という意味を帯びているようです。


このように、画面の左右の方向を少々いじるだけで、画面には複雑で詩的な意味が発生します。


このことにこだわる人が映像の演出家となり、こだわらない人はプロデューサーの道を進むようです。