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『あまちゃん』  上座の問題

日本の伝統舞台劇では、向かって右側が上手、左側が下手です。

歌舞伎のセットですと、 入口が下手、家の内部へ行くほど上手です。


ですから、家のセットの場合だと、

「ハワイマレー沖海戦

このように右左の配置が決まることになります。
家主が向かって右側、来訪者が左側。

舞台演劇だと、観客は動けませんので視点が固定されますが、
縦横無尽にカメラを動かす映画の場合、こんな風に座敷のセットを撮影しているのかどうなのか、というと、


普通は、そんなことにはこだわりません。

「BUNGO」
掛け軸を背にして、建築上の上座に男性は座っていますけれども、画面では向かって左側です。 

画面の進行方向が  向きだとすると、画面向かって右側には有利な条件の人がいるのがセオリーとなります。
片目損傷しているので、お見合いがうまくいきそうにないシーンです。


このブログは本来そういう話ばかりする場所でして、
映画が抱えるお約束事



日本の舞台劇の上手下手、おそらく、演劇が神への奉納物だったことに由来するのだろうと私は思うのですが、
偉い人は無条件で、向かって右側に位置させるという伝統ですが、

ときおり、この古代的な様式が映画やテレビドラマに取り入れられることがあります。

天皇陛下の画面配置は、有無を言わさず 上手画面向かって右


あまちゃん』ですが、作品時間が長すぎること、監督が週替わりなこと、視聴者の反応次第で脚本が変わっていくことなど、
統一的な画面の進行方向は、作り出していないのではないか、あったとしてもかなり場当たり的なものではないかと私は感ずるのですが、

そんな中で、セット内撮影の画面の向きをチェックしてみますと、いろいろ興味深いことが分かります。


実家のセットですが、入口側が左、家の奥が右 というのはこの番組通して普遍です。
階段の後ろ側にカメラを置いて、入口を右、家の奥を左という画面は一度もなかったはずです。

このやり方、伝統的舞台の上手下手と全く同じ発想でして、

実際、大吉さんの台詞に「上座」という言葉出てきますけど(「春子、酒もってこい!」)
実家の画面の中は 囲炉裏端に上座と下座がしっかり存在しますし、その奥の茶の間の食卓では、夏ばっぱの定位置は奥側の上座です。

あたかも舞台演劇のセットのごとく上座下座上手下手が存在する場所についてですが、
これは登場人物が春子さんの実家に大挙して押し寄せて、舞台演劇のようにガヤガヤやってるのが似つかわしいということなのかもしれません。

しかしそれをいうと、リアスのセットですが、

ここでも、10人くらい集まってワイワイガヤガヤやっていますけれど、
9割がた、カウンターの内側が上手、外側が下手です。
でも、時々稀に、上手と下手がひっくり返りまして、そういう場面には、リアスに象徴される地域の生暖かい秩序に亀裂が入ったような印象が抱き合わせられることが多いです。

また、このような理屈ゆえに、リアスのカウンター内部に入ることは地域社会に受け入れられたことの象徴として扱われており、ユイちゃん家族だと、ヒロシ君 ユイちゃん ママの順で、カウンターの内側に受け入れられていきます。


それと比べると東京編のセットですが、
純喫茶アイドルだと入口が上手である右側、松尾スズキのカウンターが下手の左側にたいていの場合ありまして、
リアスや実家とは全く違う場所であることが分かります。
べつに松尾スズキは東京での親代わりでもなんでもなくて、単なる初老のアイドルオタクという役割ですから。


どうして、『あまちゃん』では実家のセットの上手と下手の方向に徹底的にこだわって、各監督間での統一的お約束事にしたのかですが、
夏ばっぱの台詞にもある通り、「来る者は拒まず」の精神なのでしょう。そしていつでも「お帰り」と人を温かく向かいいれることの不変さを、
セットの方向の一徹さで示している、そのように私は感じられました。

「めんどくさいユイちゃん、お帰り」等、このドラマには「お帰り」という台詞が何度も出てきます。
そういえば、
あまちゃん』の元ネタの一つであろう『ピンポン』等の松本大洋作品にも「お帰り」という台詞が出てきます。

「お帰り、ヒーロー」
『ピンポン』のヒーローという単語をアイドルに入れ替えると、『あまちゃん』になってしまう箇所がものすごく多い。

いつでも帰ってこれる場所、だれで受け入れる場所のゆるぎなさを示すための、上手下手の固定であると同時に、

わたしには、『あまちゃん』の中で一貫しているものとして慰霊の気持ちがあるのではないかと思っています。



画面の上座の方向に、仏壇があり、その上には神棚があります。
実家のシーンのほとんどの画面にこの金色の仏壇が映しこまれるのですが

天皇陛下を映画に登場させるときに、恐れ多くて、ついつい伝統的舞台演劇の上手下手の法則に従ってしまったように、
あまちゃん』では
仏壇や神棚への祈りが揺るぎない価値であると示されていた、のではないでしょうか。

そんなことを思いながら『あまちゃん』を見ていると、忠兵衛さんは仏壇の遺影は冗談ではなく、本当の遺影であるのではないか、
忠兵衛さんは津波の犠牲者の象徴として描かれていたのではないか、
死んだ人がお彼岸とお盆には帰ってきて、生き残った人たちと楽しく冗談言いあったりできたら心の傷も癒されるのではないだろうか、

そんな風に考えてみた次第です。

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