なかなか最低な曲ですが、BGMにどうぞ。
30年以上前の『未来少年コナン』ですが、見直してると、のちの作品につながるものがわらわらと湧いてくるのですが、
『風立ちぬ』
この場面、4分の予告編からの画像ですが、予告編見て、これが結核の治療法の一つということは、じじばば世代を抜かしてほぼだれも分からないでしょう。そして、少なくとも予告編を編集した人は、これ理解されなくて当然、誤解されるのが当たり前だと思っていたに違いないのですが、
私の場合、これが、放射性物質が降りしきる中の死体袋という誤解をしたのですが、
映画中では、さすがにそこまでの誤解はありませんでした。
私の場合は、抗生物質のなかった時代って、空気乾燥したところに患者収容しておくことくらいしか出来ることってなかったんだろうな、と割に知恵が回ってしまったんですが、
別に、映画そのものは、この治療法についてあんまり真面目に説明しようとしてませんから、ネットで調べると、
「あれって、何やってるんですか?」的な質問が出てるんですが、
見てて、分かりにくい場面です。
そして、この「ミノムシ療法」って、本編中でも誤解されることを前提としているように私には思えます。
『ナウシカ』
本来死んで当たり前のナウシカが、オームの治療を受けるシーン。
ミノムシというか、サナギですね、私から見ると。
『未来少年コナン』
インダストリアに囚われていたラナをダイスが救出するシーン。
ラナをズタ袋に入れてカモフラージュしていた。
このシーンのミノムシ状態はあまり深い意味ないんですが、
それでも宮崎駿は女の子をムシロ巻きにすることにこだわりのある人らしいことが分かります。
恐らくサナギの比喩で、女の子が大人の女になって蝶のように羽ばたいていく直前のイメージなのだと私は感じるのですが、
宮崎作品には、臨死体験というか異空間体験の中で新しく自我なり世界なりを組みなおすというプロセスがあるのですが、
『風立ちぬ』の場合、それはサナトリウムに閉じこもっていたなおこです。
その死の世界から生きる世界に蝶になって飛び出していくようにサナトリウムを出奔し二郎のもとに一人の女として向かっていくのですが、
死の世界から生の世界へ、そして、少女から大人へ、の二重の意味がミノムシ姿には込められていたと私は思うのですね。
あれを見て一発でサナトリウム療法と分かってしまうと、このように画面の意味をとらえることができなくなるはずなのです。
見渡せば花も紅葉もなかりけり、裏の苫屋の…
百人一首の秀歌ですが、
近代になって、「花とかモミジとかその場にありもしないものなんで詠み込むんだ、意味ねえじゃん」とか批判受けましたが、まあ、頭悪い批判です。
相手の誤解を想定したうえで、相手の脳裏にイメージの二度塗りを行う、これって「花も紅葉もなかりけり」のないはずのものを残像として意識させる技法とほとんど同じです。
それからもう一つ。
『桐島、部活やめるってよ』より
屋上から誰かがジャンプする。それを見たパーカーが猛烈にダッシュ。
そして、この跳んだ人が桐島らしいってことは、かなり後にならないと説明されません。
どうしてパーカーは猛然と走り出したのか?まあ、映画の時間配分考えると、これが桐島であるはずだろうという推測はできるのですが、
普通に考えると、これ、屋上から飛び降り自殺したのを見たパーカーが現場に向けて駆け出した、そんな風に誤解したまましばらく映画を見てることになりかねません。
そして、この誤解はやはり制作サイドに想定されているもののはずでして、
「桐島という人物が象徴しているもの、桐島という人物によって成り立っていたものが、あの瞬間に死んだ」というような意味を帯びてしまいます。
これは、画面から、そういうニュアンスを読み取れとか映像リテラシーについての試験問題ではないのでしょう、きっと。
虚心坦懐に映画を見て、その時の自分の気持ちの流れを注意深く観察していると必然的に出てくる感慨なのです。
『風立ちぬ』に話は戻りますが、あの映画を好きだと言い切れる人は、あの映画のいたるところに宮崎駿の過去作品の残像を見てしまうからではないでしょうか。
私の場合は、なおこはナウシカをより現実的な人間像に変換したものと感じ、それゆえ物語の深みに打つのめされたのですが、
それ以外にも、いろいろありまして、
「コナン、生きて!」
海中で人工呼吸されるコナン。 『風立ちぬ』のラストと同じ台詞。
→方向を向いての、にこやかなサムアップ。
どちらのシーンも、生命の危機を犯した行動をとるも、なかまを心配させないために表情には一切ださない。
ギガントがトトロだということを思うにつけ、空を飛びたいという人類の結末って、こういう形をたどるのでしょう。
『風立ちぬ』の世界の後には、『未来少年コナン』の世界が来る。
そして、一度飛行機械と科学技術をすべて放棄した後、
『トロロ』の世界が出来上がる。
子供たちの無邪気な夢の中で空を飛びたいという欲望が鎌首をもたげ、
そして、『風立ちぬ』の世界に再びつながっていく。
そういう永劫回帰の世界を宮崎作品群の中に私は見てしまいました。