『桐島、部活やめるってよ』 橋本愛がどのように機能しているか、について。

日本映画の歴代トップテンにはいっても不思議のない傑作。





神木隆之介
橋本愛
東出昌大
大後寿々花

の四人がメインの役者であるとして、神木隆之介 − 大後寿々花 がコインの裏表であるとして、
それでは
橋本愛 − 東出昌大は コインの裏表であるのかということですけれども、

そうすれば、物語構造としてはすっきりした形になります。と申しますか、人間は、物事の構造をそのようにすっきりした形にまとめたがるものです。

作る方にしても、受け取る方にしても。


まず、その前に、この映画で橋本愛が担う役割ですが、主要メンバーのみならず、その他のわき役も含めて、
橋本愛のみ何考えているのか、何を求めているのかが分からない役です。

ストーリー的には、橋本愛は、主人公の片思いの対象なのですが、

では、橋本愛神木隆之介に気があるのかどうなのかというと、 

台詞聞いているだけでは、かなりひどい女だな、主体性のない女だな、という感じですが、
台詞を消して、画面だけ見ていると、おそらく主人公に何らかの気がある女の子、という風にしか見えません。


私以外の方、特に中二の方がいいんですが、
橋本愛が演じた役って、
「見た目かっこ悪いけど、夢とか将来とかに向かって頑張っている主人公、かなりステキ」って思ってるように見えませんでしたか?

画面の作り方がそんな風に思わせぶりだからなんですが、

その思わせぶりなのは、神木隆之介視点の画面だからという場合もありますけれども、
明らかにそうでない場面もあります。

主人公の憧れ目線と交錯する第三者目線のカメラ。
「見た目かっこ悪いけど、夢とか将来とかに向かって頑張っている主人公、かなりステキ」って印象は、観客には露骨には示されることがなくて、うまくカモフラージュされているのです.


このカモフラージュぶりが、主人公が彼女にあこがれを抱くように、観客も彼女のことを美化してのめりこんでいける仕組みになっています。
この映画、見れば見るたびに、「橋本愛って天使かもしれない」という気持ちが強くなるのですが、その病の療法として、橋本愛の他の主演映画を見ると、
ちゃんとまともな世界に連れ帰してくれます。

現実の橋本愛が天使というよりかは、この映画は、橋本愛を天使のように描いている、

まあ、この映画、青春期の消滅についての映画だとするなら、その哀切さを万人に了解できるように橋本愛との別れの痛みとして表現しています。


以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。




この映画で多用される、 ポジティブ方向への橋本愛のまっすぐな視線。

それと比べると、彼女の日常会話は偽りを含んでいるがごとく、大抵  方向。

ちなみに、この橋本愛の視線の先にあるのは、

この二人。
「君よ拭け、僕の熱い涙を」
むろん、彼女は笑ったりはしない。

さらに言うと、この題名、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』吉田大八監督のデビュー作の題名と非常に似通っています。

この二人をまっすぐ  方向で見ていたもうひとりの人物。

橋本愛 − 東出昌大は コインの裏表という可能性は、高いと感じられます。


東出昌大は、自分の彼女大して好きじゃありません。ただスクールカーストの序列から釣り合いが取れるというだけのようです。


そうなると、
橋本愛のほうの彼氏にしたところで似たようなものなのではないでしょうか。
台詞だけ聞いてますと、主人公には夢も希望もないぐっさり突き刺さるような感覚がありますけど、本当のところ、教室に二人きりの現場に出くわしたことって、そこまで絶望する必要あったんでしょうか?というのが映画を見ている側の感想です。



この映画の淡々としていながらの劇的な構成、
夕日が出てくるのに、夕日に向かって走りようのない映画。
青春の消滅点を、屋上、夕暮れ、遅い秋の日 と限定します。

桐島と思しき人物が数メートルの高さを飛び下りた場所が、青春の消滅点として設定されています。


そして、その消滅点に向かって、すべての人物、吹部の女の子を除く が集まってくるのですが、



青春の墓場としか言いようのない、ゾンビの世界、そして、その中にすべての人物が巻き込まれてそれぞれの人たちの青春期が終わります。



常に夢のある方向を こんな風にみるのが彼女のこの映画の中での役割なのですが、

いま、彼女の目の前にあるのは、


壊れてしまった夢を撮る機械を抱えて、どうしていいのかわからない主人公の姿。


この映画に別れを告げるようにヒロインは 方向へと消えていきます。


この後、東出昌大が主人公と会話しますが、
本当はその会話って、橋本愛との間でなされてるはずのものだったのかもしれません。

東出昌大は、太陽が沈んだ後、一人泣かずにはいられなかったのですが、

橋本愛の方は、何を求めているのかまるで分らない役でして、彼女の役の細部についてはリアリティがありますけれども、役そのものとしては、物語上の機能であって、リアルな人間を表したものではありません。


部活仲間からの心情吐露を聞く場面。
話を理解しているのでしょうけれども、画面の構図は、二人の位置が食い違っており、
仲間の言葉は、直接には橋本愛の心に響かない、という風に見えます。





永遠に物語から消えてしまった橋本愛ですけれども、東出昌大のほうは、ずっと後を引きます。


他の登場人物にとっては夕暮れとともに、何かが終わってしまったのですが、

彼をずっと待っていてくれる野球部は、照明をともして、まだ練習を続けています。

彼の視線は、

そこに固定されたまま、画面が消えるまでどこにも行きません。


このラストシーン、彼が、翌日野球部に戻るという解釈も成り立つとは思われます。



それから、


映画に出てる役者、女の子たちは大体が18とか19で高校生演じても違和感ないんですが、

男の方は、かなり年上です。

なかでも、
このキャプテン、

三十くらいなんですよね、年齢。

早送りしてみてると、高校生にしてはあまりに老けているので、どういう役なのかわからない、とくに、夜の公園で素振りしているシーンは、分からない。

「ドラフトまでは野球やめられない」って、期限が切れたにもかかわらず、夢にしがみついている人って、
老けて見えるということなのでしょう。

本来学生しかいない中に、いい歳した大人が混じっている、

夢をあきらめないとは、そういう見た目にはつらいことでして、


ちなみに、
映画部の面々、

平均年齢、何歳ですか?この部。

この映画、スクールカーストの観点から楽しんでいる人たちも大勢いらっしゃるのですが、
リア充グループの人間関係の描き方を見てると、
それぞれの集団がランク付けされているだけでなく、
同グループ内でも序列があるのですね。

まあ、部活動なんて先輩後輩、うまい人下手な人で自然と序列できちゃうのはしょうがないんですが、

対等な友人関係って、この映画の中では、おそらくこの二人だけ、なんです。

友人のほうは、年齢25歳。ちなみに本当に映画監督やってる方です。
この映画のテーマ的には、完全に勝ち組です。