『桐島、部活やめるってよ』  

群像劇は主人公が絞れないだけに、「何言ってんのこの映画?」という風になりやすいです。

登場人物、みんな高校生で同じ服着ているというだけでだれがだれかを判別しにくいのですが、
それぞれが別のものを目指しているのですし、その目的の相違により、別々な方向を向いたり、それぞれの方向へ向かったりするので、画面見ているだけでは、なかなか映画の内容が分かりません。
そして
一時間40分で、10人以上の青春の日々について何か語るわけですから、個々人の話は、そんなに深く突っ込んだ話にはなりません。
逆にいうと、全員の断片的な物語が、多くの楽器で構成されるクラッシックの曲のように一つのメッセージを成していると仮定してみるとわかりやすいのかもしれません。

BGMにどうぞ

私は、この映画を二回続けてみたのですが、
最初の一回目は、始めの30分を倍速で見たせいで、多くのことを見落とし、聞き落しました。

それでも、題名になっている「桐島」がこの映画には登場せず、どのような人物なのかも謎のまま映画が終わるというあたり、小松左京の『牛の首』とか2ちゃんの『鮫島事件』を思い起こさせて、怖くなってくるんですが、

再見したところでも、その怪談じみた不気味さは、やはりこの映画の中にあるように思われます。

いきなり些細なことで、青春の消滅点に立たされたことに気が付かない恐怖と申せばいいでしょうか?


たくさん登場人物はいますが、
エンドロールには、この四人の名前だけが大写しされます。

神木隆之介
橋本愛
東出昌大
大後寿々花

役者の格というのもあるでしょうけれども、この四人にとりあえず目をつけて見ようということにしましょう。


たくさんの人物が入り乱れるので、画面の方向は分かりにくいのですが、大後寿々花に関しては、その向きがものすごくわかりやすい。

以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。



映画部のロケとバッティングするシーンが二つありますが、そのどちらでも、男の子への憧れは  の方向ですし、 (彼女が考える)本来の彼女の在り方である音楽への情熱は  であらわされます。


それゆえに、この画面に関しては、
二人の女の子の立ち位置がどちらが右でどちらが左かが説明されないのですが、
画面の流れから 大後寿々花  の方向で二人がキスしているのでしょう。そのほうに顔を向けたいのに、目がその方向を見れないという彼女の演技が興味深い。

にもかかわらず、このキスする二人と大後寿々花の立ち位置、どっちが右で左かはっきり画面で説明されませんから、あれ、どうなんだろう? 彼女の目線は二人のキスシーンを見てるのかそれとも視線そらせてるのか?このシーン。

この箇所に関しては、この映画のミスですよね?と思ったりもしたんですが、

大後寿々花に関しては  
いき先のない憧れが 
自分にとって適性のある自分の個性を伸ばせる方向が  

とほとんどのシーンが構成されていますから、そのせいで、彼女の視線が右に動くか左に動くかで、何考えてるのかが分かったような気になってしまう、そういう演技です。

ほんと、あなたが中学二年生で、役者に興味あるなら、この大後寿々花の目線の動きがどのような心の動きに対応しているのかを考えてみてください。

そして、現実でこの目線演技やっても誰も騙せないですよ。


そして、こんな機械的な演技だとしても、いい悪いの差は確実にあるのですし、
この映画、全般的な流れをつかみにくいので、大後寿々花にはリアルさよりも分かりやすさを監督が求めたのだろう、私はそう感じます。

分かりにくい映画の中で、大後寿々花二より映画の流れが形成されるのですが、

それがとことん顕著に出たのが、屋上のシーンのBGMが吹部のワーグナー


演奏を始める前の呼吸のリズムの乱れと緊張した面持ち、見るものは、まだ彼女の心にはさっきのキスシーンが残っていると感じられる。

演奏が終わった後、まだ落ち着かない視線ですけれども、それでも  方向を振り返ることはありません。

そして見るものは、これら手がかりから、彼女はさっきまでの片思いに自分なりのケリをつけたと思うものです。
さらにもう少し抽象的にいうなら、彼女は、この時、自分のための人生を選択した ということになるかもしれません。


そしてこの曲をBGMにして屋上での乱闘が起こるのですが、


ミサンガ をつけた彼氏を食い殺し、


橋本愛を食い殺す。

このシーンの解釈ですけども、

現実では、気に入らないチャラい彼氏をぶちのめして、橋本愛のような美少女を強奪し自分の思いのありったけをぶつけるなんてことは、できないと主人公分かっていますけど、
それが、映画の中でフィクションの皮を一枚かぶせたときに、それと同じことがものすごく自由に行えるのですね。
そして、その虚構の中で自分の欲望を充足させる喜びに気づき、有頂天になった後、

現実に引き戻され、突き飛ばされ、夢見る道具だったカメラを壊されてしまいます。

いつも私が主張する画面の編集から解釈するなら、こうなるのですけれども、



それよりも、私は、以下のように感じるのですね。

大後寿々花に対してスクールカーストの底辺争いのライバル心むき出しだった主人公が、
科学実験棟では、すんなりと場所を譲ります。

なぜ主人公がすんなりと場所を譲ったのかについては、何も説明されないのですが、
直前のシーンでミサンガ つけてイチャイチャしている二人を見てますから、
恐らく恋愛に関する感度が高かったのでしょう、もしくは失恋に対して嗅覚がきく状態になっていたのかもしれません。

(こういう解釈の在り方については、
映画でほとんど説明されないことを自分の人生から得た知識経験によって補填している訳でして、
映画や小説は、あえて空白を作り、そこを読者観客に自主的に穴埋めさせることで、読者観客の共感の度合いを高めるための仕掛けに、まんまとはまっただけです。そして、それは人類が何百年もかかって手に入れた絶妙なコミュニケーション方法なのではないでしょうか?)



この物語、
神木隆之介大後寿々花ってコインの裏表みたいな役で、
大後寿々花が自分の意志で片思いにケリをつけ一応の満足を得たのですから、神木隆之介の方も自分の意志でケリつけないとバランス悪いよな、とそんな風に私は見ながら感じるものですから、


橋本愛を食い殺すシーンに、性欲の発露を見るだけではなく、夢見る対象の喪失、それも自分の意志によって、先のない夢との決別の意味を感じてしまいました。


みなさん、「生きてかねばならないのだ」の台詞が好きなんですが、
わたしは、こちらのほうが好きです。
「あやまれ、もうすぐ太陽が沈むんだぞ。そしたら撮影はできないんだ」

]
「好き勝手な夢見てられる時間はもう少ないんだ。その後は現実の中だけで生きなきゃならないんだ」と私は、脳内翻訳して見てました。

さりげない台詞で、物語をうまくサブリミナル的に説明している箇所が、私はそのさりげなさゆえに好きです。

「生きてかねばならないのだ」のほうは、迷彩効いていない分だけ、私的にはちょっとつまらない。

橋本愛のシーンも逆光です。太陽が沈むからです。



東出昌大神木隆之介に、カメラを向けながら冗談めかしてインタビューします。

そしたら、神木隆之介が、「それ逆光だよ」と言って、
今度は東出昌大を順光でカメラからのぞきます。

神木隆之介には、東出昌大は陽の当たる場所でいくつも並べられた人生の選択肢の中から好きなものを選ぶ自由があるように見えるのでしょうけれども、

実は、東出昌大には、選択肢が一つもないんですね。