閉じた物語と開かれた物語に二分できると仮定しましょう。
閉じた物語とは、物語の中で論理的整合性が高く、その物語の完成度が高くて作品本体のみで自立しているという意味です。
開かれた物語とは、物語の中に論理的整合性が低く、背景となる出来事を加味しない限り分かりにくくバカっぽいというくらいの意味です。
『風立ちぬ』とは明らかに後者の作品であり、それゆえに、この背景が見えなくなってしまう将来においては、評価は今とは異なったものになるだろうことが予想できるのですが、
この映画、関東大震災って、何のためにあるのでしょう?
物語の必然として存在してないですよね?
なくてもいいですよね?
閉じた物語の完成度から考えると、そうなります。
しかし、こんな風にあのシーンの存在を疑問に思う日本人って、ほぼだれ一人いないでしょうし、
日本が数年前に大地震に襲われたことを外人も知ってますから、みんな、すんなり地震の場面を受け入れるのではないでしょうか?
ナウシカでもラピュタでもトトロでも何でもいいんですが、宮崎作品の物語には、物語のコアに異界が設けられ、主人公がそこに入ることで解決の糸口が見つけられるのですが、
この『風立ちぬ』には、そういう構造がはっきりとは示されません、
なぜかというと、主人公は、夢という異界のなかに最初からどっぷりと浸りきり、基本的にそこから出ない人だからです。
そういう人物を主役に設定したときに、では、それを見る観客は、どの間合いでこのファンタジー空間に入り込んでいくのか?
ということですが、
その異界へ侵入のきっかけとして使われているのが、関東大震災の描写ではないだろうか?私はそう考えます。
私たちは、あの地震の描写を見たときに、みな強烈にリアリティを感じますし、それゆえに、映画の中にどっぷりとはまり込んでしまうことになるのです。
人を物語の中に没入させるに、このような開かれたやり方があるのか!と映画を見てしばらくたってから、かなり驚きました。
閉じた物語を完成度が高いとありがたがる人にとっては、それゆえ、将来的にはどうでもいい映画なのかもしれません。