- 作者: 小泉八雲
- 発売日: 2012/09/13
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15歳以上で、この話を知らない日本人とはどういう存在なのでしょう?私のあずかり知らぬ世界です。
まあ、いいでしょう、いきましょう。
映画や写真で現代人は脳内に豊富な映像ストックを持っていますから、それらを活用して小説を読んでいる。しかし、それゆえ100年前の人間は現代人のように器用に小説を読むことはできなかっただろう」
というのが私の仮説なんですが、
『耳なし芳一』読んでみました。
当然、映画なんてまだなかったころの時代ですし。
それに、『耳なし芳一』、小泉八雲のオリジナルではなくて採集した民話の中の一つです。
近代的に手直しはされているでしょうけれども、基本トーンは何百年も前のものです。
読みなおした感想というのは、
「これなら俺でも映画化できるんじゃないか?」というもの。
主人公盲人ですから、情景描写、ほとんどないんですよ。
聴覚に頼った描写なんですね。
だから、セットとかに金費やす必要ないですし、
盲人の視覚世界に近づけるために、薄暗くてよく見えない箇所、ピントの合っていない個所を画面上で増やし
場面を俯瞰するようなアングルは極力排し、足元とか指先だけを映した画面を多用して…
などと寝る前に考えていると、だんだん楽しくなってきます。
50年前にすでに小林正樹により映画化されているのですが、
私が考えたように、画面になるだけものを映さずに音で表現する、という方法での映画化ではないですね、これ。
武満徹、なんか私にはコケオドシに聞こえるんですよ。
これ、
いわゆる、エキゾチックジャパン的な映画で、それいったら小泉八雲自体がそうなんでしょうけれども。
まだ、まんが日本昔話のほうがおもしろいです。
民話をナレーション抜きの個人目線のみで映像化するってのは、かなり困難なことだとは思うのですが、
このまんが日本昔話を 画面の進行方向に着目してみていると、うーむ、と思わされます。
芳一が貴人の前で演奏し、そこで高い評価を受け褒美を約束されるまでの流れは ←進行です。
これ、怖い話で、主人公が何かを求めて行動するという話ではなく、偶然降りかかってきた災難に痛い目にあわせられるだけの話でして、
ぐいぐいと←方向に進む物語でもありません。
まんが日本昔話では、 貴人の前で演奏していると思い込んでいた芳一は ←進行でしたけれど、
下男に後をつけられて 墓場の前で人魂を前に演奏していることが判明したときに、→方向に反転しています。
この反転にしてところで、芳一の意思とはかかわりなく、第三者目線での反転に過ぎないのですから、
映画一時間四十分もたせるだけの主人公ではないんですよね、芳一は。
正直言うと、設定背景のおどろおどろしさ。民話的怪談が与えるぞっとする感じ。それ以外の物語は、ここにはありません。
映像作品を ← →で見ることに慣れてしまった私にとっては、このまんが日本昔話は、物足りないですし、
さらに言うと、小泉八雲読んでいる時点から物語が追及するテーマが特にない点が物足りなかったです。
いい歳になって『耳なし芳一』を読んでみると、
どう考えても住職と芳一は、ホモだよな。と思われます。ものすごくホモくさいです。
だから、亡霊の向きと 住職の向きを そろえるか対立させるかで、物語に自然と重層構造が出来上がってしまうという点では映画は便利な媒体なのですが、
それにしたところで、その重層構造を事前にちゃんととる人は頭の中で考えないといけません。
うーむ、『耳なし芳一』において、ホモとかセックスってどう扱われるべきなのだろうと、しばらく一人で布団の中で考えていたのですが、
おめえ、目、見えてるだろ。
かなりダメな作品なのですが、それでも映像化することで、画面左右の問題が物語構造に入り込んだとき、
このような脚色は、非常に当たり前に生ずる、と私は考えます。
決して、「泉鏡花や谷崎純一郎をさっき読んだから」程度の理由のみからではないと私は考えるところです。