読み飛ばし読書 『ダンスダンスダンス』

小説を読むのはある意味難しい。

まあ、逆から言うと簡単でもあり得るんですが、



このブログのテーマなのですが、映画の画面は右向き化左向きかにこだわってみよー、
ということなんですが、なんでそこにこだわるべきかと私が考えたかと申しますと、

みんな、そのことについては、映画を見ながら刻々と頭の中から情報を削除し続けているからでありまして、
まあ、映画の画面を読み飛ばしている訳です。


この読み飛ばし、つまり頭の負担を軽くするために煩雑な情報を削除して理解しようとする習性ですが、

映画の場合ですと、強制的に目の前に映像が映し出されますし、その時間も制作サイドにより決定されています。

まあ、観客にできることというのは、ときどき居眠りしたり雑念にかまけたり、左右の向きを無視したり、BGMを聞いていないふりしたり…ということなのですが、


これが小説の場合ですと、読み飛ばしとは通常すごいもんです。

よく、文学賞の審査委員が缶詰にされて何十冊も候補作品を読まされるという話を何かで読んだりしますが、

「んなことできるわけないやろ」と私は思います。

恣意的に読み飛ばすんだったら可能なんでしょうけれども。




読み飛ばすとはどういうことかというと、自分のわかるところだけ読む、自分の知りたいことだけ読む でしょうか?

ある種の批評が、「なんで、そういう変な方向に話がずれるわけ?」というのは、そういう読み飛ばしをやっているゆえでして、
ただ、それにしたところで、読み飛ばされたうえでの「理解」とはそこまで悪質な誤解と言いきれるのかというと、

わたしたちの日常を考えると、「他人を真剣に理解しようとすること」なんてほとんどありません。
通りすがりの人を理解する必要がないというだけでなく、精神科医で人の話をちゃんと聞こうとする人に私は未だかつてあったことがありません。

人の話の聞きとばしなんてしょっちゅうやっている訳ですから、そっちの方が当たり前で、
その前提を踏まえたうえで、他人に一定レベルの理解させる能力が重宝がられたりします。

時には本当に理解したい相手もいないわけではありませんが、
小説ってそこまで完全に理解してあげないとならないものなんでしょうか?適当に楽しんだらいいんとちゃう?と、どこかで私は思っているのでしょう、大抵ひどい読み飛ばしを行っています。


まあ、実用書の類と違って、読み飛ばしたところで、鍋が焦げるとかタイマーが作動しないとかそういうことありませんから、別に大した問題が起こらないので、あんまり社会的に問題にされることもありません。

『ダンスダンスダンス』今までに何回も読んだつもりだったんですが、
記憶にあるのって、13歳の美少女とハワイで楽しく過ごすくだりばかりです。

まあ、私が興味あるのってそういうかしょですから、それでもわたし的には構わないのですが。




生前の淀川長治がNHKのスタジオパークからこんにちわで
「小説を読むときは映像的イメージが頭に思い浮かんでくるまで先に進むことはないから、私の場合はものすごく時間がかかる」と言ってたんですが、

マンガ家とかも日ごろからそういう読み方しているんでしょうか?そうやって日々訓練しているんでしょうか?


小説を読んで、それを脳内映画化して全俺的大公開している人って、そんなにいないと思うんですよ。

自分でやってみると、けっこうこれが難しい。

それに映画に相当詳しくないと、脳内映画化ってできないですね。
カメラワークが映画を構成していることを理解しない人の脳内映画化って、ぜったい漠然とした印象と断片で成り立つ作品だと思います。

まあ、淀川長治なら脳内映画化できたんでしょうけれども。


小説を読んでいて、思うのは、
全ての箇所が脳内ムービーになるのではなく、あくまで言語表現でしか成り立たない箇所がたくさんありますし、映画かに際しては省略するしかない部分もたくさんあります。



そんなの、小説と映画は表現ジャンルが異なるんだからしょうがないでしょ、と当たり前のことを思われたかもしれませんが、

それは確かに当たり前なのでしょうけれども、
ただ、現在に於いては、映画を見るってものすごくありふれた日常なわけでして、
小説書くときに、先に脳内映画を撮影して、そのスクリーンをペン先でなぞる場合もありそうです。

『ダンスダンスダンス』のホテル内での羊男との会話のシーン、相当にわかりにくいんですが(難解とは感じませんでした、むしろ陳腐なことをどもりながら語っているような箇所なんですが、

ああいうのを読者が脳内映画化してみると、

やはり、わたしの場合は『イージーライダー』に近い感じになってしまいます。


You Represent Freedom

村上春樹ドアーズ好きなんですが、
完璧な自由って何なんだ?というと、それは、文明が崩壊した世界の果てにしかないはずのもの、という論理的な回答が、
イージーライダーにしろドアーズにしろあってりして、
アメリカってカウンターカルチャーにしてもそれなりに論理的なんだなと、感心したりします。


『ダンスダンスダンス』では、
電話が人と人をつなぐ配線として象徴的に扱われており、
これはひとつ前の小説『ノルウェーの森』でやってたことの続きのようなのですが、

トニーリョン主演の『恋する惑星』 原題は「重慶の森」

諸々の物品に対して独り言言うシーンの数々は明らかに村上春樹的。

村上春樹に特徴的な、「十月の森のリスみたいに…」みたいな珍妙な比喩。そしてその比喩がそのまま脱線的に何ページも生き生きと描写されてしまうところ、
あれを映像化すると

ウディ・アレンの作品みたいにアニメを実写の中にかませるしかないでしょう。
村上春樹は、ああいったシーンを書くときに、この手の脳内映像化やってるような気がします。
そして
こういう映画観た後だと、村上春樹の作品の脳内映画化はかなり捗ります。


同じくトニーリョン主演の『シクロ』 監督はノルウェーの森をとったベトナム移民のフランス人

同じく『シクロ』

なんだ、どうした、キューブリックの『ロリータ』と同じ展開


村上春樹は台詞かくのうまいと思われていますけれども、
わたしたち、こんな風に「文学っぽい」こと、話したりはふつうしませんし、この間合いでしゃべることもありません。
こういうの聞いてて、むかむかしてこなかったですか?

意外に、村上春樹って台詞あるシーンを書くときは脳内映像化してなさそうです。
ノルウェーの森』、日本人監督だったら、台詞をもっと日常的な匂いのするものに書き換えていたでしょうな、そして村上春樹に怒られて降板させられると、

この映画、日本語分からない外人に監督させた時点で、ほぼ失敗だった、と私は思うのです。



まあ、まとめますと、


村上春樹の小説家を脳内映像化してみますと、意外に会話シーンって、頭の中で映像イメージを必要としていなかったんですね。
あれ、ただ、字として読んでたようです。

そして、込み入った分かりにくいイメージの描写は、視覚イメージを介在させないと読んでいてわからないし、本来分かりにくいから本人も頭の中で映像化した後に書いているような気がします。


そして、『ノルウェーの森』においてはじめてのリアリズム小説とみずから言いましたけれど、
村上春樹の小説のリアルでない箇所というのは、妄想が独り歩きを始め、次の展開の扉を勝手に開けてしまうようなところであり、あれを別のタッチで平行線的に表現すると、ちゃんと普通のリアリズム小説というか映像ですね、になりそうな気がします。




中途

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