『時をかける少女』 

この回の続きです


「映画の解釈は個人個人によって違うものでしょ?」といういい方もあると思います。

究極的には「人生の意味の解釈って心の持ち方次第でしょ」というのと同じだと思います。

ただしかし、映画のスクリーン上の光景は、私たちの日常の目の前の光景とは違い、製作スタッフによって解釈の幅の限定された光景であるわけでして、

あまりにも自己勝手な解釈のあり方というのは拒否されてしかるべきであろうとは思われるのでしょうけれども、

それにしたところで、映画の解釈って、
解釈する立場の観客には、点と点しか与えられてなくて、その点を強引に線でつなぐのが解釈とでも言ったらいいんでしょうか、
では、その線とは何なのかというと、物語の合理的な解釈だったり、世の中の一般常識だったり、映画スタイルの伝統だったり、するのでしょうけれども、
わたしの場合は、画面の左右の方向を恣意的に操作することで観客の心理を誘導しようとしているはずの制作側の目論見、でしょうか?

ただそれにしたところで、点と点をつなぐということ、いわばかなりあやふやなことをやっている訳ですから、違う人がやれば違う結果に至ることも当然でしょうし、同じ人間がやったところで、別の時にやれば別の解釈に至ることもあります。

同じ映画なのに、時には全肯定だったり時には全否定だったりって誰でもあるんじゃないですか?
そこまで極端でないとして、


ただ、単に、シンプルに、この画像、時間の可逆性について示したものでもあり得る、といえるわけでして、

それなら、

これも時間の可逆性についてのもので、
「いま、言い出せないことを言ったら、別の未来が待っているんだろうか?」
「あの時、別の言葉を言っていたら、今の自分たちは別の在り方しているんだろうか?」
という、人生上の無数の分岐点について、なのかもしれません。

まあ、何にしろ、この画面、歩行者と自転車だけが動いていて、二人全く動きません。

こうやって、一画面に動く要素を一個に限定するやり方、ガンダムに多いんですよね。
演技って、相手にどう絡むか、ということですから、二要素が同時に動くと仕掛ける側と受ける側に演技のやり取りが発生するわけです。
これを絵で表現するのは、けっこう大変で、ガンダムみたいなしょっぱい作画だと、二要素同時に動かすと、演技が破たんしてしまう。

こういうの、私はガンダム演技と内々命名しております。


そして、更には、映画から動きを取り去って、

この画像だけしばらく凝視してみるとわかることなんですが、

「そういやあ、わたしは、この映画を恋愛映画として見たことがなかった。なんか面白い映画としてしかとらえていなかった」ということに気がつくわけです。

大林宣彦作品では、恋愛という要素から映画の軸がぶれることを許さない的な覚悟があったのですが、こちらの作品では、主人公の態度と同じで「恋愛という関係が息苦しくてそれよりも友達関係の方が可逆性が…」というノリに見ている側も嵌ってしまっておりました。

まあ、現役で女子高生やっている方なら、おっさんとは違う見方されているかもしれないのですが、


この画像、男の子は帰るはずの未来の方向に体を傾けていて、女の子は彼と左右対称の姿勢を取りたいはずなのだけど、本当はあったはずのこの後の展開を知っているだけに、男の子と幾何学的な左右対称の角度を作ることができない。
女の子は本来右側に傾いているはずなのに微妙に真ん中寄りを向いている。

結局男の子は、女の子が体験したはずの本来あるはずだった未来を理解しないまま画面の向かって左側に消えていくんですが、


おそらく、泣いている女の子の後姿を見て、男の子は本来あるはずだった未来、本来いうはずだった言葉の重さに気がついて、
引き返して女の子に慰めの言葉をかけるのでしょうけれども、

「恋愛という関係が息苦しくてそれよりも友達関係の方が可逆性が…」というノリを強くして、恋愛から逃げた分だけ、この『時をかける少女』はそれ以外の時をかける少女よりも、ラストシーンが分かりにくく理屈っぽくなっているという感は否めないところです。

一つには、
今の世の中、高校生よりもその親や祖父母の方が数が多いですから、
素直に高校生の恋愛に向き合うような作品よりも、ついつい、マーケティング上おっさんおばさんじいさんばあさんを意識した作品がつくられる、それもアニメという本来子供をマーケティングの対象にした分野でもそうなっているということなのかもしれません。