晩年の黒澤作品について思う

黒澤明作品については、周期的に全部肯定したくなる。

周期的ということは、どういうことかというと、

70年代以降の作品群については全否定したくなる季節が定期的に私に訪れるということでもある。



「オジサンノコトシラナクテスミマセンデシタ」

画面が左右のせめぎ合いであり、どちらが勝ってどちら側に画面が進むかによって物語を語る、

そういう発想がなかったとしたら、
画面中央にレフリーの様に別の人物を配置したりはしない。


「ヨカですよ」

カメラを背面に回して二人のポジションチェンジ。


正直申しまして、この『八月の狂詩曲』、もう見る機会がないとしても構わないような気がする。
見ていてばかばかしく思う点が多すぎ。

黒澤研究以外の観点、つまり映画単体として見た場合の出来が痛々しい。

その表れの一つとして、この映画には進行方向がぼやけてしまっています。

映画にテーマがあるということは、進行方向をもとに一言か二言でテーマについて語ることができるわけでして、私が映画について批評する時は、その一言か二言がたいていその記事のタイトルになっているのですが、

この映画に関しては、どんなテーマなの?と聞かれると
「原爆って辛いよね」程度の、何をいまさら黒澤に言われるまでもないことしかなさそうなのです。


主人公の老人にしても、物語の中で何か目的意識を持っているかというと、
原爆が憎いアメリカが憎い程度で、別に何か追及している訳でもないのです。
別に反核運動やっているようにも描かれていないですし。


過去の悲しみにこだわること、恨みつらみを忘れないこと、そんなとこでしょうか。
未来志向とか前向きとは言えないと思います。

それゆえにリチャード・ギアが出てくるまでは全然面白くありません。


子役の演技、何なんですか?黒澤の演技指導とか、もしくは人間観察ってこのレベルだったんですか?

まあ、それはいいとして、

この映画に画面の進行方向があるとして、
いや、実際にあるんですが、

往年の→方向の映画ではなく、 ←方向へと転向しております。

では、そっちの方向に向けてなにかメッセージ語っただろうか?何かを追求したのかといいますと、


「俺たちなんか見苦しかったよな」

ハワイに金持の親せきがいる事実にすっかり浮かれ、長崎の原爆のことに蓋をしていまおうとしたことへの自戒の言葉。
戦後日本の繁栄ってひとことでいうとそういうことなんだろうとは思うのですけれども
結局、その程度しか言いたいことのない映画だったんだな、と。


そして、最後の全員疾走の場面にしても、

昔この場面見て感動してたんですが、

今見るとひどいもんです。クライマックス作る為のセオリーだけが顕在化したような場面。

何目指してみんなで走ってたんだろう?どこに行きたかったんだろう?

まあ、そういう頭でっかちな話はいいとしまして、

道のわきに急ごしらえしたなんちゃって花壇の出来の悪いこと。
ガーデニングやってる人間から見たら、ありえないレベルです。よくこんなホームセンターで買ってきた100円の苗を大量に植え付けただけの美術を黒澤は許したな、と唖然とするのですが、
晩年にこういうことをやってしまうと、

結局、この人の厳しさと美意識ってこの程度のもんだったのか?と思うのですね。

同様に、

このバラにしても、花にこだわる見方をすれば、
嘘くさい植わり方です。

この場面のアリを原爆被災者に見立てて、薔薇に達して成仏したことを示す場面や、


生き残った級友が花を上にくる場面については、

黒澤節とでもいうべき構成がなされているだけに、
あらさがしなぞせずに そういういいシーンについて語るべきなのでしょうけれども、

映画のレベルとしますと、ガンダム第1話にはるかに劣るように思われます。

滅ぶべくしてほろんだいまはなき珍獣、そんな感じの映画です。