一章の『映画の抱えるお約束事』
で触れてありますが、
← ← ← と継続した流れが断絶して、→方向に転換した場合、
観客はだれも画面の進行方向を気に留めていないですが、その代わりに無意識的な何かが切り替わった、と錯覚してしまうのが映画というものです。
その切り替えの最たるものが、生命の終了に関するもので、
人物が死を迎えるにあたり、その向きは←
ポジティブから→ネガティブ方向にカットが切り替わる
日常生活でも、死者の枕を北方向にする訳ですから、
この「お約束事」を「北枕」と呼ぶことは妥当なことに思われます。
ちなみに、「映画 北枕」で検索しても、私のブログしか出てきません。これわたしが考えた用語ですから。
業界人って、ふつう、自分の商売のネタについてべらべら外部に公表したりしないからなのでしょう。
死の間際、家族に囲まれ、意識が混濁し、
映画は、このようなやり方で「人を殺す」ことを伝統的に行っているのですが、
最近はyoutubeに映画がuploadされることが増えましたので、映画について書くことの取り組み方が全く変わってしまいました。
わたくし、いままで伊丹十三の映画をほとんど見たことがありませんでした。
どの映画もhowto本的な内容であることが、私には軽薄に感じられ、主役がいつも嫁・宮本信子で美人出てきませんし、
そのうえ
映画で映画のパロディーやっているようなところも、私が伊丹十三を敬遠する理由だったんですが、
今現在彼の作品はネットで、ぽつぽつ見れみますので、見てみると、
上で述べたようなわたし個人の印象は確かにその通りですが、
映画そのものは、じつに生真面目に構成されており、感心させられます。
『タンポポ』の臨終シーンですが、
全体のストーリーから切り離された三分間動画をいきなり見て、
笑ってしまうか、それとも泣いてしまうかは人それぞれでしょうが、
現在の日本映画は←方向に進む、ことを了解しておくと、
意外に簡単に泣くことができます。
なんでか分かりませんが、奥さんが死にかかっています。
「眠ったら死ぬぞ、なんかしろ、そうだ飯を作れ」
むちゃくちゃな要求です。「眠ったら死ぬ」って雪山で遭難しかかってる訳でもあるめえし。
まだ生きていますので奥さんは←向きです。
それから←方向によろよろと起き上り、台所に行ってねぎをつかみます。
ただ、調理を始めるときには→向き。
安アパートのそばを通る小田急。
「まだ温かいうちに、喰え」
奥さんは→向きで畳の上に転がり、医師から死亡を宣告されます。
どうして、小田急線が生と死を分ける境界線に見えてしまうのか?空席の目立つ中に乗っている人たちが幽霊に見えてしまうのだろう?
私には何とも言えません。
人間の心理に根差した境界線の一般的イメージってこういうものなのだろうとしか言いようがないのですが、
その電車は斜めにかしいでいますが←とポジティブ方向です。
ちなみに
小田急線の傾いだ角度と、畳に倒れた奥さんの傾いだ角度は大体同じで、
そのことが、見るものに、
奥さんはこの幽霊電車に乗って死後の世界に旅立っていったと、思わせるわけですが、
この場面、一体奥さんはいつ死んだのかという点が興味深いのですが、日常実感からすれば、チャーハンを食べる家族を見ながら満足そうに微笑んで、それから床に倒れた時が、死亡の瞬間になるのでしょうが、
画面は←に進むことを了解してみると、
実は、台所でネギを刻み始めたときには、すでに死んでいた、と解釈することは可能ですし、むしろそう解釈した方が、この三分ちょっとの動画を深く味わうことができます。
いきなりこの三分ちょっとの動画を見て、
死にかかっている奥さんに
「飯作れ」と言ったら、ふらふら立ち上がって…、というのは
全然リアリティを感じられないのですけれども、
実は奥さんはすでに死んでいて、チャーハン作っているのは幽霊だった。
肉体はすでに死んでいるけれども、家族のために温かいご飯を作りたいという心は、死後もしばらくこの世にとどまっていた、という解釈も可能だ、というかすくなくともそれを否定する妥当な根拠もないと思います。
それでしたら、
チャーハンというのは、ただの食い物ではなく、死んでいく奥さんの心からのもの、という風に解釈したほうが楽しいのではないでしょうか。
もしくは、実のところ私は、このように考えるのですが、
台所で調理を始める瞬間に、奥さんは死に始めます。そして小田急線のカットがはさまれた時には死んでいます。
つまり、奥さんは調理することで、自分の生命を自分の体からチャーハンの中に移していた、そのように私には見えてしまうのですね。
だから、ちゃぶ台の上に中華鍋を持ってきたとき、奥さんはもう死んでいます。
井川比佐志が「まだ温かいうちに喰え」と怒鳴るのは、死体よりも魂の方が大切だという意味でしょうし、
自分の生命を 後世代の血肉に変えて朽ちていく、というのは、植物にはよく見られるあり方だと思います。
動物は個体の枠組みが強すぎで、わたしたちはそのことをあんまり実感できる機会がないのですけれども。
この動画の場合は、チャーハンですけれども、
芸術家の仕事、それから普通の人でも何かをやり遂げることで後世代と繋がろうとする生き方、
自分のためだけでなく他者を利することで、自分の生命の限界を越えたいと願う気持ちは、
基本的に、すべて似たようなものだと思われます。
満足そうな微笑み。
生活実感的には、まだ生きていますけれど、映画のベクトル的には死んでますので、じつはこれ、天国からのスマイル。
女優の演技というよりかは、監督の思考に帰するべき美しさ。
映画の画面についていちいちこのようなことを喋ると、非常に理屈っぽい人間だと敬遠されがちです。
そういうことをせず、この三分ちょっとの動画でいきなり泣いて見せれば、個性的で面白いけどちょっと変な愛すべき人みたいな印象を得ることになるかもしれません。
そして、わたしは、周囲の人よりバカに見える故に愛されるということに、自分の人生において完全に飽きてしまいました。
このシーンにしても、一見超絶バカっぽい設定であるという点が、やたら深いことを語る際の愛らしさに偽装されています。
まあ、人に好かれないと、映画ヒットしないですからね。
それなら→ から ←に枕の向きを入れ替えることで、
生き返ったことを意味できるのか?
という問いが生じます。
たとえばこのシーンですが、
『千と千尋』
千尋のおかげでハクが快癒するシーン。
ちなみに
『梟の城』1999年
鶴田真由の愛のこもった看病で、中井貴一が快癒したところ。
60年代から70年代にかけて日本映画・ドラマは画面の進行方向を →から←に切り替えますが、
実は篠田正浩は、最後まで→進行で映画を撮り続けた。
何人かの映画監督は、最後まで→の画面進行にこだわり続けたのですが、
そのような人たちにそのことを尋ねたインタビューというのも、私は寡聞ゆえ知りません。
また
同じネガティブ方向でも
本当に死んでいる場合には、
とフラットな構図の確率が高く
それ故、快癒したことを示す場合にも、←
向きのフラットな構図が好まれるようです。
また、ほんとのところ死んでいない→
ネガティブの場合、画面を斜めにする構図が好まれるようです。
生死にかかわるほどの問題でなくとも、
死ぬほど退屈だ!死ぬほど…!っていう言い草がありますが、
それは大げさな言い方なんですけど、
映画にもそういうカットのつなぎ方があります。
なにも臨終の場面のみに、この「北枕」のカットつなぎを行ってるわけではなくて、
死ぬほど退屈なオフ状態から、オン状態に切り替わった時にも使われる「お約束事」になっています。
『リンダリンダリンダ』
バンドのメンバーが、怪我して、学際のステージの出演どうしようか迷っている香椎由宇。
「ねえ、学祭出るのでないの?」
水面から状態を起こして、きりっとした口調で「出る」
しかし、彼女の内面で決心がついたのは、→ から ← に向きの変わった二枚目のカットの時と見ているものには感じられてしまう。
『檸檬のころ』
友達がいなくて、昼休みには屋上でウォークマン聞いているしか楽しみのない女の子。
→向きのネガティブ
なぜか、←のポジティブの方向変換。
こうなると、ほとんど言語です。
この「北枕」、
宮崎駿が非常に得意とするところです。
『未来少年コナン』
ハイハーバーにインダストリアルの兵隊が進行して来てラナを捕獲します。
絶望的な状況を演出するため、「北枕」
ジャンプしてラナのところに着地。長距離ジャンプで視聴者の平衡感覚がブレたのカモフラージュに利用して、画面の方向転換。足しか映っていないけれども、よくよく見るとこのカットでラナが「北枕」から解除される。
つまり、コナンが側にきてくれたことでラナは九死に一生を得たということ。
→のオフ状態の人を ポジティブ方向に転換せず、そのまま→方向に起き上がらせると、どうなるのだろう?
そういう疑問が、数学的な論理方式だと当然湧き起ってきます。
立ち上がる際に、このようなネガテイブからポジティブへの方向転換を伴ったものを
「起死回生」と呼ぶならば、
『時をかける少女』
このように死者にふさわしい→向きからそのまま起き上がることを、
「魔界転生」とでも呼んだらいいのでしょうか?
(だんだんネーミングセンスが『路上観察学会』的になってきたと自分でも思う次第ですが)
朝の起床シーンは←方向になされるのですが、
タイムリ―プの能力を獲得する際の 失神からの目覚めのシーンでは「魔界転生」方向への起床です。
メインキャラクターがこの「魔界転生」を行うと、物語は非常に高い確率で現実法則を越えた世界に移行します。
『千と千尋』の冒頭のシーン
脇キャラがこの「魔界転生」を行った場合、ゾンビのように感じられてしまい、非常に不吉な感じが画面から漂います。
『告白』
屋上でいじめにあって倒れていた子供が、雨の中で起き上がる。
画面の進行方向を正しく無意識下で受け止めると、
このシーンにはぞっとさせられるものがある。
こういう「お約束事」を踏まえて映画のキャプチャー画像を見ますと、
何も知らない場合の十倍くらいの情報を瞬時に得ることができます。
『おくりびと』
死んだ人とちゃんとコミュニケーションをとることが納棺士の仕事である。
だから、彼らにとっては死体は生きている人と何も変らない。そういうことなのでしょう。
死者は ← 向きであり、まだある意味生きています。
そして死者を不完全な形でもいいから生き返らせて、遺族と最後の別れをさせるのが、おくりびとの使命。
たった一枚の画像から、映画のテーマが分ってしまいます。
宮崎駿作品の「北枕」に関する取扱いは、さらに複雑巧緻です。
『風の谷のナウシカ』
ラステル姫の臨終のシーン。まだ生きていて、積荷を焼き払うようにとナウシカに伝えます。
息を引き取ると、「北枕」。ちなみに「北枕」にカットが切り替わる為の合理的説明として侍従の視点のカメラに切り替わっています。
これなどは、典型的な「北枕」です。
ナウシカの寝室シーン。健康な女の子は ←方向に目覚める事が出来ます。
ラストシーンですが、
当然、ナウシカの頭は「北枕」ではありません。
『風の谷のナウシカ』が「北枕」にこだわっているという事を理解したうえで、ナウシカが腐海の底の森に至ったシーンの方向を解析してみると、この作品の主張が分る様な気がします。
映画=主張というわけではなく、映画が観客に何を与えたかによってその作品は評価されるべきと私は思うのではありますが、
主張つまりメッセージも映画が観客に与えるものの一つなのですから、やはりちゃんと見る側は考慮すべきでしょう。
メッセージなんかどうでもいい、みたいな乱暴な事をいう評論家もいますけれども、それは違うだろ、と。
寝ていないシーンも混じっていますけれども、とにかく枕の向きが頻繁に入れ替わります。
ちょうど男の子と一緒に異空間にいるので、その男女二人の緊張感がその方向転換の理由の一つになっているのでしょうけれども、それにしても異空間にいるからといって、頻繁に合理的説明もなく枕の位置を変えすぎます。
何遍ナウシカは、この腐海の底で「死んだ」んだろう、そして「蘇えった」のだろうと思うのですが、
ナウシカはこの腐海の底で、一つの答えを見つけたように観客には見えるかもしれませんが、その答えは一体なんだったのかが、実は説明されていません。
腐海がいつか世界を再生させる事は理解しましたが、では、風の谷の住人にとってはそれはどういう意味を持つのかという事は分らないままなのです。
風の谷の住人にとっては、そんな悠長なことは言っていられないでしょう。腐海の拡大は今そこにある危機なのですから。
何世代も何世代も死んで、そうして長い年月が過ぎた後、人類は始めてその答えに到達する事が出来る、
ナウシカの枕の位置の変化の数の多さは、そういう意味なのかもしれませんし、
もしくは、人類が滅んだ後に、もう一度生命と自然の歴史が繰り返されて、それが幾セットか過ぎた後、新しく生まれ変わったヒトは自然との間に理想的な共生関係が築けるという、ある意味で破滅信仰のようなものなのかもしれません。
わたし達に出来る事は、そういう必然的な破滅を前向きに見つめる事だけなのではないでしょうか?
私が以上で述べた事と似たような感じ方をされた人もいるだろうし、もしかすると、宮崎駿も同じことを思っているのかもしれません。
「人類なんか滅んだ方が地球の為にはいい」とか言っちゃうような人物ですから。
『ナウシカ』の画面ではオームや虫たちは基本的に←とポジティブ方向に移動します。
私は便宜上ポジティブという単語を使っていますからもしかすると誤解される方もいらっしゃるかもしれませんが、ポジティブというのは、物語の目的達成のためにポジティブな役割を果たすと言う意味でのポジティブです。
決してメンタルクリニックの人たちが患者を励ます時に使うポジティブという意味ではありません。
だから、物語の目的が破滅の希求であるとするならば、ポジティブ方向に進むものは破壊行為をおこないます。
物語の目的が死の悲惨さを描くことであるならば、ポジティブ方向に流れるのは、全て血塗られたものに満たされます。
ナウシカは、この映画の中の目的&目的地をはっきりと認識できているのか?というと、うすうす感づいているだけで実はよく分かっていない、おそらくそういう立場です。
物語の主人公が常に自分の求めるものを分っているのか?と言えば、創作理論的には分っている振りをさせたほうが都合がよいのでしょうが、わかってない場合だってあるわけですよ。
どうやって世界を救うのか?という事を物語にした場合、『アルマゲドン』的な世界の救い方ってあほらしいと思うでしょ?
ナウシカの飛翔シーン。
飛び上がる時には→ネガティブ方向で浮き上がり、
この飛翔のし方から考えても、実はナウシカはこの物語の目的地をよく分かっていないのだろう、ただ風を読んでの彼女の行動が必然的に目的地に導かれていくだけなのだろうという事を私は感じます。
そして
虫たちと対峙するときには、受動的なポジショニングが常です。彼女は人を導いてどうこうしようとはしますけれども、虫たちには極めて受動的であり、彼女は物語の目的を知っているわけではなく、物語の過程で虫たちに導かれるように目的を発見する、というかなり特異な主人公像であることが分ります。
物語が破滅を希求していると仮定するならば、ナウシカはそんな物語の目的を知らないままの方がいいのかもしれません。
物語の目的を主人公が知らないという構造は、100年前の教養小説のようでもありますが、宮崎駿はもともと長編のテレビアニメに携わっていただけに、長い物語の中で主人公が成長していく過程を描くことが彼にとっては当たり前なのでしょう。
何が欲しいのか?何になりたいのか?それを分っている主人公達、アメリカンドリームへの挑戦者というようなキャラクターとはナウシカは全く違います。
この「北枕」は、死んでもいないのに死んだ人と同じ方角に枕を向けるのは縁起が悪いという日本人の迷信とばっちり対応しています。
そして、おそらくその理由から、宮崎作品では、異界に投げ込まれる子供をこの手法で描写することが執拗に行われているのではないでしょう。
おそらくアメリカ人は、ここまで「北枕」にこだわることはないでしょう。
それ以外にも日本人の無意識の部分と結びついた画面進行のお約束がいくつか挙げられます。
自殺
キリスト教徒には腹を切ってわびを入れるというような考え毛頭なくて、自殺者は文句なしに地獄に落ちるとかんがえていますから、自殺の瀬戸際にあるような人たちをじっくり両義的な意味で描こうという発想は薄いと思われます。アメリカでは自殺を考えるだけでも十分に罪なのではないでしょうか?
アメリカ映画と比べると、日本映画には自殺者が出てくる頻度がものすごく高いように思えるのですが、どうでしょう?
日本映画には自殺の間際まで行って、でも止めました的人を非常に肯定的に描く場合が多いような気がします。
当たり前かもしれないですが、飛び降りて自殺することにポジティブな意味を見出そうとは日本人であっても誰も思っていないのでしょう。
それ故に、飛び降り自殺は←のネガティブ方向になされるのが普通であり、←向きに人が死ぬことはまずありません。
谷村美月 21才ながら一体何回映画とドラマの中で飛び降り自殺および未遂したんでしょうか?10回以上はやっているんじゃないでしょうか。
『ユビサキから世界を』
それでも、本当に飛び降りたのは『ユビサキから世界を』の中で、自分のドッペルゲンガーが飛び降りるシーンだけ。
『ピンポン』
「しぐ?死なねえよ。月にタッチするなんてわけないぜ」
「I can fly」
窪塚洋介は実生活でも飛び降りましたが、この映画同様に生き残りました。
これは、自殺未遂を表現しようとしたのではなく、生まれ変わる儀式を表現したもののようです。
輪回転生をなんとなく信じている日本人には、「生まれ変わる」ことは馴染みやすい表現なのですけれども、アメリカ人的にはこういう映像表現はどうなんでしょう?キリスト教徒は「生まれ変わり」なんて信じないでしょうから。
遺影
これも東アジア的な宗教観に関わる表現です。
日本人の葬式仏教は、その八割方が中国儒教の祖先崇拝でして、死んだら仏になるというのは、あからさまに祖先崇拝に起源があります。
死んだ人の霊にお願い事をする、死んだ人の霊が守ってくれる、アメリカ人はそのようには考えないでしょう。
『川の底からこんにちは』
子持ちでどうしようもない男と付き合うダメダメな女、満島ひかり。彼女の両親の遺影は、<ー側に傾けてある。
ラストで「おかあさん、おとうさん」と絶叫する満島ひかり。その顔は、遺影に向き合うように−>側に傾いている。
谷村美月は飛び降り自殺志願者だけでなく、実際に死んでしまう役も多い。
『ボックス』
「この子、死んだらカブちゃんの守護天使になるゆうてましたん」
『おにいちゃんのハナビ』
死んでしまうと、回想シーン以外では登場シーンは無いし、当然演技もできないのですが、
このようにカットをつなげることで、遺影が<ー方向のベクトルを画面に作り出します。
死んでも尚、家族を励まそうとする健気な妹の話です。
映画とは、登場人物の無意識を色彩と音響と方向で示し、それらを観客に無意識に共有させる表現手段と、私は考えていますが、
映画が提出する無意識がそもそも、国民性やそこの文化に相当左右される本当に無意識的なものである場合もあるようです。