幽霊目線?について

ここしばらくわたしが嵌っている『透明人間』ですが、

透明人間

透明人間


わたし的にこの小説を段落わけすると、

①透明人間の正体が知れるまで
②透明人間が助手を伴って主体的に行動する
③透明人間がなんでこんな状況に至ったかの回想
④透明人間と善玉の決闘

となります。


②③④は物語を語るキャラクターの人数が限定整理されていますが、

①の段落では、透明人間が投宿した先での周囲の人たちの複数の目線で物語が語られます。

雑多な人物たちの眼を通して物語が語られるので、読者は感情移入できないのではないか?と思ったりもするのですが、

まあ、この小説、かなりの%が会話で成り立っておりまして、演劇の脚本のようだというか、現国の教材だったら演劇部の経験のない教師には朗読難しいだろうなとか、思わされるのですが、

どんな人物に私たちは、共感できるかというと、
自分と似ている、それも人間としての在り方に自分と共通性が見られ尚且つ自分よりも数十%以上レベルアップした人物に共感しやすい、
そう私は考えているのですが、

①部において透明人間の周囲に群がる人々というのは、鈍い無教養な田舎者がほとんどで、
読者はなかなか自分のことを「鈍い無教養な人物」とも思っていないでしょうから、物語の叙述を進める彼ら彼女らには人格レベルでの共感はしていないでしょう。

これは『ライ麦畑でつかまえて』の叙述形式とそこから派生する小説の雰囲気とは全然違うものです。


そして、読者は、『透明人間』という書名それから帯や裏表紙に書いてある小説のあらすじなどから、不審者が透明人間であることは小説を読む前からわかっていますから、
透明人間の正体を詮索する宿屋とその周囲の人たちをどこか小ばかにしたような上から目線で見てしまうものです。

つまり、ライ麦畑と違って、物語上の駒に対して共感していないわけなんですが、

それでは、かれらボンクラの役目は何なのかと言いますと、
データの供給元なのですね。

『透明人間』の①部を読んでみるとわかることなのですが、読者に与えられる情報というのは、あくまでもボンクラな村人に見える聞こえる情報のみなのです。

ポプラ社の子供向けに手直しされた青空文庫版には少しばかり誰の目線で見たのかわからない光景の描写がありますが、
本来は、完全に村人が入手しうる情報のみによりこの小説の①部は構成されております。


読者は、心情の共感ではなく、かれらの立場での情報を与えられているということで、
誰目線の物語か?というのは、必ずしも誰それの気持ちはよくわかる、というものではありません。

それゆえでしょうか、『透明人間』の①部では背後霊がその憑りつき先をすいすいと乗り換えていくように、宿屋の女将から修理屋、宿屋のおやじ運送屋と透明人間について情報を与えるキャラクターがくるくる変わっていきます。

背後霊という言葉を使ってしまいましたが、
わたしたち読者というのは、物語における幽霊のようなものなのでしょうか、
その場面場面において、
適当なキャラクターに乗り移り、適当に心を共振させ、そしてフッと離脱し、少し距離をとった位置から場面を俯瞰したりもする。



ホビット』より、エルフの都市を離れてから山脈をゆく一行の場面。

あたかも観客が一行のメンバーの一人でもあるかのように画面を見せるカメラワーク。
カメラは実際にメンバーの中にいる。



その場が風光明美であることを観客に示すかのように、カメラは上昇してゆき雪山の頂を映す。


この場面なんて、もしあなたがメンバーの一人で尚且つ体力が有り余っていて精神的に余裕がある陽気な人間なら、実際にこのカメラの動きの通りにやってしまうでしょう。
隊列からひょいと離れて2メートルくらいの岩によじ登り山の美観に『へー、ほー』などと讃嘆する。

そうすると、軍隊の場合だったらリーダーから「隊列を勝手にはなれるな、馬鹿野郎。今度やったら逃亡容疑で銃殺だ」とか言われて鉄拳制裁食らうわけです。

まあ、私たち観客の存在、いやカメラの存在といった方がいいのかもしれませんが、それは映画の中では幽霊と同じだから、
リーダーから殴られたり銃殺されたりはしません。

登場人物たちにつかず離れずの距離感で物語についてゆく幽霊と同じです。


行程における決然とした意志を示すかのようなウザいBGMがここには被ります。

実際こんな道歩かされると、大変だし、強い意志も必要なのでしょうけれども、

ただ見ているだけの観客にとっては疲労も凍えもなにもないヴァーチャルな物見遊山にすぎません。