物語を誰の目線で語るのか?
この点について気になる人は多いと思います。
気になる、気になる…、しかし具体的にはどのようなやり方でという具体的な問題は、ほとんど語られる機会がないのではないでしょうか?
誰の目線で物語を語るのか?ということにつきましては、例えば
『ライ麦畑でつかまえて』とか
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『人間失格』だとか
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村上春樹の諸作品
- 作者: 村上春樹
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等は一人称、僕とか俺とか私が見た聞いた考えたことが述べられる叙述形式で、
ある種の読者にとっては物語にのめりこみ易いとでもいうんでしょうか、熱狂的な愛読者というかフォロワーを産み出したりしています。
これらの作品は、単に一人称の語り形式だから受けているというのではなく、その語り口や物語に圧倒的な魅力があるのでしょう。
まあ、ただしかし、一人称の叙述形式に注目してみますと、
主人公の知覚したもの、認識したものしか物語の中で語られないというのは、
わたしたちの現実の在り方に近しいわけでして、これらの作品は、選択肢は一切提示されることはなくともロールプレイングゲームに近いのではないでしょうか?
RPGの特徴といいますと、主人公の立場、視線を強制されることと、物語の分岐点で選択肢を数多く与えられることだと思いますが、
上にあげたような作品では、選択肢を与える代わりに読者にとっていちいち納得できるような物語の展開を与えている訳でして、それ故の名声なのでしょう。
それに対して、三人称として主人公を彼もしくは名前で呼ぶ作品、芥川龍之介の『羅生門』を例にとると、
あの主人公の下人の心理的葛藤と推移に、のめりこめる人はほとんどいないと思います。
「なんじゃ、ありゃ?唐突、場違い、生きている時代が違う、説明不足、自分なら絶対そうしない」などの思いを引き起こされるような作品の場合、絶対に主人公を突き放したような叙述形式でないといけないのでしょう。
三人称的に語られるから、しょうもない作品で済むのですが、
あれを一人称で語られると、なんとも言えない気味悪さがあると思われます。
そういえば、三島由紀夫にも一人称の作品がいくつかありますが、
彼の小説の難しさというかのめりこむ際の間口の狭さというのは、きわめて特異な人物を一人称で語る点にあるのかもしれません。
小説においては、一人称の叙述形式が高い確率で魅力的であり得るらしいのですが、
では、その形式を映画にした場合、どうなるのかと考えてみますと、
『湖中の女』はひどくまどろこしい。
この回で、『湖中の女』については相当多くわたしは語ってしまいましたが、
もう一つ言っておきますと、
一人称叙述の小説は、すべて過去形で語られておりまして、
女の子は僕を見た。でも彼女は今度はにっこりとはしなかった。眉をしかめるようにして僕を見て、それから眼鏡の女の子を見た。
「大丈夫。悪いひとじゃないから」と彼女は言った。
「みかけほど悪い人じゃない」と僕も言い添えた。
女の子はまた僕を見た。
という風になります。
まあ、小説が過去形で語られることは、一人称三人称にかかわらずなのですが、
物語とは、基本的に過去に体験したことを語るもので、
小説とか吟遊詩人とかがこの世にあらわれる有史以前から、誰かが別の人に対して物語するとは過去形であったことが推察されます。
過去に既に起きたことゆえ、小説の語り方というのは、時間をどんどん端折っていくことができるわけでありまして、
たとえば五分間の面談の場合の描写の際には、
面接官が人を見抜くには面接者の目と手の動きに心の本当の姿が現れていると考えているなら、
その二つだけに描写を絞り、実際には五分間の場面を30秒で読み切れるように書いて構わないわけです。
それに対して、映画でそれをやられると、時と場合によっては猛烈に違和感を感じることになるわけで、
『勝手にしやがれ』のズタズタな編集感覚というのは、実のところは小説の編集感覚に近いのではないでしょうか。
面接官が目と手にしか着目していないという説明をしっかりしてからでないと、何をやっているのか見ている側は戸惑ってしまうでしょう。
そして、一人称的叙述を模倣したかのような完全POV映画の『湖中の女』の場合ですと、ものすごくまどろっこしいのですよ。
たとえば、車に乗り込んでキーを回して、それから少し運転したところで後部座席に忍び込んでいた男に殴られるというシーンがあったとすると、
一切時間をはしょることなしに、そのシーンを映し出しています。
普通の映画なら四回くらい切り貼りの編集をして、数分の一の時間で描写すると思うのですが。
つまり、小説においてうまくやれば大成功を収められる一人称の叙述形式というのは、映画においてはそのまま使うことは出来ないのでしょう。
それはどうしてかというと、小説は過去のことを語っているのに対して、
映画はそれが上映されている間は、ヴァーチャルな「現実」であることが前提であることが一因なのではないでしょうか。