心の描き方 浦澤直樹節

この記事に興味を示された方は、まずこちら『映画が抱えるお約束事』の方をどうぞ。
以下の内容の前提が記されています。



『プルート』より、10万馬力から100万馬力に改造されたアトムが心の優しさを維持しようと最後の一線で立ち止まる雨のシーン。





10万馬力から100万馬力に改造されたことで、心のやさしさを失い、単なる破壊機械に作りかえられたかもしれないアトム。

カタツムリを拾い上げ、その生命の意味を理解できないままに潰してしまうかもしれない。

御茶ノ水博士はその様子を固唾を呑んで見守っている。

アトムは、ギリギリの一線で、自分の心の存在を確認し、
100万馬力であろうとも、今までどおりのやさしさを自らの中に再び見出す。


ここで、御茶ノ水博士の立ち居地に注目してみますと、


基本ずっと赤側の立ち居地です。

このカタツムリでアトムの心の有り方を表現する沈黙のシーンですが、

その始まりでは御茶ノ水博士は青側であり、見るほうに不安を呼び起こします。


そして、このシーンの真ん中のところで、一こまだけ御茶ノ水博士の立ち居地が入れ替わります。


つまり、このシーンがアトムの心の問題の一番スリリングな箇所であり、

この後、博士の立ち居地が再び赤側に戻ることで、アトムが心の問題の峠を乗り越えたことが暗に示されます。



非常に映画的な技法であり、浦澤直樹は実に多くこの技法を用いています。





このブログ内で何度も私が語っているとおり、
心とは本来目に見えないもので、それを見えるようなあざとい演技で示すと、かえってそれは心には見えません。
画面の向きとか立ち居地の変化で示すほうが遥かに説得力を持っているらしいもののようです。


この浦澤直樹の代名詞的なコマ構成ですけれども、
マンガっておもしれーって思うのは、
御茶ノ水博士の立ち居地によってアトムの心を表現しているってことなんですが、面白いよね、やっぱり、こういうの。