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映画の瞬き


映画というものが、わたし、だんだん分かってまいりまして、
それにつけて、他人の書いた映画についての本を読んだりもするようになったのですが、

『映画の瞬き』は『地獄の黙示録』等の編集者であるウォルターマーチの著作。

映画の瞬き―映像編集という仕事

映画の瞬き―映像編集という仕事

彼は、
『カンヴァセーション 盗聴』の編集を行なっている時に、カットのつなぎ目が奇遇にも主役のジーン・ハックマンの瞬きと非常に高い確率で重なることを発見し、
カットの切り替えは、映画における瞬き、なのではなかろうかという結論に達する。


人間は、自分の意識の流れに句読点を打つような感じで、
意識に一区切りつけようとするときに、瞬きを行う、
そうで、
視線を切り替えて、見る対象を切り替える行為 つまりカットの切り替えと人間の生理現象である瞬きには類似性があるとのこと。

その他にも映画の編集をするときには、椅子に座っているとできない、
編集という行為は、映画とワルツを踊るようなもの、という言葉もある。


映画のお約束事は、あくまでも作る側の内輪で文法化されたものであり、観客にとってはそのお約束事は秘されたままで、ただサブリミナル的に作用している。

なぜ、観る者の無意識的に働く表現が、一定の効力を持っているのかというと、
それらは、本来、人間の生理的要因に沿ったものであるから、と私は考えている。

もしくは、自然界の物理現象に類似したものであるとか、
たとえば、
フェイドアウト  フェイドイン  夜が来て朝になる情景をもしたものであること。




たしかに、ウォルターマーチの話は、私が『湖中の女』という完全POV作品を見たときの違和感の説明になっています。

『湖中の女』に関する関連記事

ただしかし、わたしなら、もっと面白い話ができる。

瞬きを映画の演技の中でどう使っているかということも、私は、谷村美月の演技の中から学ばさせてもらいました。
『おろち』という楳図かずお原作の映画では、彼女は、妖怪の魔性を表現んするために、ほとんど瞬きをしていません。
一分間くらい平気でまばたきをしていないのですが、
しかし、この映画が特別なのかというと、彼女の最初の映画『カナリア』の中でも一分間に3回くらいしかまばたきをしていません。

演技のレッスンを受けると、かなり早い時期に、瞬きの回数を減らすように指導されるのでしょう。
ドライアイの人にとっては辛いことだと思います。


尤も、彼女が普通にバラエティー番組に出るときなどは、一分間に30回以上瞬きしています。
これが、普通の瞬きの回数であり、
つまり、日常生活では、映画の演技と比べて、遥かに意識の流れが雑多な方向に行ったり来たりしているということであり、
映画の中で描かれる人物像は、瞬きの回数で考えるなら、10分の一程度に内面の意識量を整理されて観客に提示させられていると言えるでしょう。
それだけ、単純化された人物像なのですから、映画の登場人物に私たちはかなり容易に感情移入することができます、
それと比べると、現実の世界の他者には、なかなか感情移入することはできません。
なぜ、映画を見ながらボロボロ泣いている人が、現実では無慈悲でいられるのかの理由がよくわかるような気がします。


関連記事
リアル鬼ごっこの谷村美月の瞬きの演技

ただ瞬きするだけで、自分の意識の切り替えポイントを示すことができるのですから、相手の話を聞きながら、どこでまばたきを入れるかで、その人物が相手の話をどう評価しているのかが、ほぼ見ていてわかります。

これは映画の中だけでなく、現実でもだいたいこの通りで、非常に有用な知識です。


もうひとつ面白い話に深めますと、
生身の人間は、ドライアイの問題がありますから、瞬きはしないといけないものです。それに個人差がありますから、瞬きの回数の多い人が、必ずしも内面意識の流れの複雑な人とは言い切れないのですが、

アニメのキャラというのは、本来まばたきをする必要のない人たちです。
それでも、彼らは時に及んでまばたきをちゃんとしているのですね。

機動戦士ガンダムの『強行突破作戦』を例に取りますと、
ザクレロというしょーもないモビルアーマーの出てくる回です。
前回にグラブロというかなりの強敵がいたので、そこにシャーが乗っていたんじゃないかとセイラさんがくよくよするのですが、

ガンダムって、塩辛い制作状況で作られた作品だけに、作画の汚さってのは、とんでもないレベルでして、
この回で、瞬きしているキャラは、アムロとセイラさんとほかに数人だけです。
チェックしてみる前の予想として、ガンダムって低予算番組だから、誰一人瞬きしていないんじゃないかと思ったんですが、
確かに、あんだけ目の大きいキャラがほとんど瞬きをしないのは、見ていて疲れるんですが、セイラさんとアムロはちゃんとそれなりに、あくまでもそれなりにですが、瞬きをしていました。

どういうことかというの、意識の流れに変節のないキャラってのはまばたきさせないんですね。
それに対し、セイラさんは兄のシャーのことを仲間に秘密にしているんですが、秘密にしている故に、言葉と心の動きに乖離が生じてしまう。そのギャップを埋めるかのように瞬きが入りまして、
それに対して、アムロが「あれっ」と訝しがるタイミングで彼の瞬きが入ります。

それ以外のキャラクターは、わりとどうでもいい扱い。


それと比べると、宮崎駿作品の未来少年コナンの方は、細かい。
『コアブロック』 これは、私の一番好きなコナンのエピソードですが、


どアップじゃなくて、この引いた位置でもラナに瞬きをさせています。
これじゃ、たしかに、宮崎駿寝る暇ないでしょうな。

意識の流れの切り替わりやすい人 = 繊細な人 という法則がこの作品には見られまして、

瞬きの回数は ラナ>コナン>ジムシー の順です。
とにかくラナには瞬きの回数が多い。

アニメで言うなら、瞬き回数が一定回を超えるキャラクターはメインキャラといっていいのではないでしょうか?
彼らの意識の流れは画面において示されており、その流れを受け入れるということは、共感することと同義でありましょう。

それと比べると、ダイス船長は非常に楽しいキャラクターですが、彼の意識の流れというのは、物語的にはほぼ無視されています。
いつ、彼が画面に出てこようとも、無思慮なアホ元気キャラとして扱われますので、意識の変節点を示す必要がない=まばたきをさせる必要がない、ということになります。
この『コアブロック』の回では、ダイスは一回しかまばたきをしません。

レプカとなると、記号的な悪役ですから、いつでもどこでも安定した悪が内面に宿っているわけでして、ヘルメット被るときの不可避の生理現象としての瞬き以外は描かれることがありません。


興味深いのはラオ博士ですが、

一切瞬きをしないのですね。これは、彼がインダストリアの人々を救おうという強い信念の元、自分の生命を顧みずに行動していることを表しているように思われます。
彼には、今更、意識の変節点などはないのでしょう。



コアブロックへの近道をたどる際に、額に烙印を押された下層民たちの居住区に立ち入ることになります。
そこは、コナンを案内してくれている青年の地元なのですが、
そこの人たちは、コナンとジムシーの姿を見ると、一様に瞬きをします。
一見すると彼らのみすぼらしい外見では、人間らしい心がないかのように見えるはずなのですが、
ところがところが、コナンとジムシーの登場に生き生きと心が動く人たちであるということが、瞬きの演出によって描かれています。




この回の未来少年コナンを見ていて、なるほど、と思い知らされたのは、
話を聞く側は、相手の話す内容の重要ポイントに合わせてまばたきを入れますけれども、
しゃべる側がまばたきを入れるポイントというのは、その話の重要ポイントと微妙にずれているのですね。
これはどういうことかと申しますと、

「きみも見ているのだが、観察をしないのだよ。見るのと観察するのとではすっかり違う。たとえば、きみも、玄関からこの部屋へ上がる階段は、何度も見ているだろう?」
とシャーロックホームズが話すときに、
彼のような頭のいい人ならば、この台詞を話始める前に、この内容が瞬時に頭に思い浮かんでいるはずです。
だから、「この部屋へ上がる階段・・・」の箇所では、ホームズの意識は階段の方にいちいち動いたりはしないんですね。
むしろ、階段という単語を口にする、かなり前に、彼の意識は階段の方に向かい、その際に瞬きをしているかもしれません。

それに対して、この話を聞いているワトソンの方は、ホームズが「階段」といった時に、実際に階段の方を向くか、もしくは頭の中で階段をイメージしているはずで、それに合わせて瞬きが入ることがあるかもしれません。


未来少年コナンでは、アニメキャラに瞬きの演技をさせる際に、このレベルのことまで考えられています。

それと比べるとガンダムは、金がないとか時間がないとか言う前に、監督の才能が宮崎駿と比べると見劣りするというしかないでしょう。



富野由悠季は著書『映像の原則』の中で、アニメの画面は<―の方向に進行する、と私と同じことを熱く力説していましたが、
ガンダムの画面を見る限りでは、その理屈に自覚的でありすぎる故か、画面の流れが悪い。見ていて自然に心理が誘導されるというものではありません。
作画枚数が圧倒的に足りない中での作品ですから、仕方のないことなのかもしれまえんが、それにしても、そういう仕事が常態化してしまった彼の作品の、画面の流れは、少なくとも私には、心地の良いものではない。

それと比べると、宮崎駿作品は、実に自然に<ーに画面が流れていきます。
その自然な流れは、キャラクターの瞬きの的確さと呼応するかのようです。

悪役は ―>向き。


主人公たちは<―に向かう。

画面の進行方向については、こちらの関連記事をどうぞ
映画が抱えるお約束事




宮崎駿は生まれながらの金持ちでして、この放送時の78年には、20数インチのテレビしかない家なんかいくらでもあったはずですが、
そういう貧乏人一切相手にしていないような、この構図。
遠近感バリバリに効いた、この豆粒のような戦闘員よ。



わたしが、この『コアブロック』の回が好きだったのは、なんだろうと考えるにつけ、

宮崎駿の後の映画、『ナウシカ』『ラピュタ』で、再生を孕んだ市の国というものが登場します。腐海の底でありラピュタ城ですが、
その後の作品でも、そのような物事の価値観が日常とひっくり返った空間に主人公が紛れ込み、その中でポジティブな再生を果たすという構造が物語になっています。

コアブロックは何ゆえにコアなのかというと、宮崎駿の物語の構造のコアだからだろう、と今になるとわかります。
それゆえでしょうか、この回には、妙な魅力がこもっているように思われました。

ナウシカ腐海ほどの重要な扱いではありませんが、この地底都市でフライングマシーンを修復するための部品を手に入れます。
実に宮崎駿的な話の展開です。



ちなみにガンダムで私が一番好きなエピソードは、『大気圏突入』と『ジャブローに散る』の自由落下です。
のちのガンダムシリーズでも、自由落下のエピソードは繰り返し繰り返し描かれています。多分ガンダムの鍵を握る回だったのでしょう。

何も考えず、無心で見ているだけで、作者のそういう核心に近づくことも可能なんですね。
まあ、三子の魂も百までってやつです。

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