『映像の原則』  富野由悠季

以前、撮影監督・中澤正行氏のブログにて、映画の画面上に本来演劇用語である上座と下座を見出している人が私以外にもいることを知ったのですが、

そこで紹介されていた書籍『映像の原則』富野由悠季

言わずと知れたガンダムを作った人物の著作なのですが、
「本書を何度読んでもわからないという方は、やはり映像業界につくことはお勧めできません」と表紙に書かれております。

機動戦士ガンダム』と言えば、ある意味私の人生上最も影響力の強い作品でありまして、それゆえ富野由悠季という人物は、私にとって神話的レベルの人なんですが、
時折テレビでみかけるあの暑苦しい語り口と比べると、本書の内容は実に論理的であり実用主義的であり、確かに映像作家志望者必読の書と背表紙に書かれてある通りの内容です。

まだ読了していないのですが、この本、
アニメの話があまり出てこず、どちらかというと映画の話の方が多い。そしてガンダムのガの字もまだ出てきていません。
そして、テレビで見るところの、やたら暑苦しい態度と違い、ひたすら理詰めの内容。

本当に、あの富野由悠季なのだろうか?と私は思ってしまいました。

『映像の原則』、さすがとしか言いようのないタイトルですが、全十二章中、書名と同じ章名の第五章で述べられる内容は、
「画面には進行方向がある」という、私の電波ブログとほぼ同じ内容です。
進行方向に統一性が無くてはいけないとか、どんなときに方向を切り替えるかとかについて書かれていますし、
車に乗っている運転手と助手席の同乗者では進行方向が口違って見えることについても触れられています。


「そうか、現時点の私には映像作家としての適性の基本はあるのだな」と嬉しくなってしまいましたが、
如何せん、現時点では年齢が適正なラインを大きく越えてしまっています。
もし20歳までにこの事を知っていたら、誰かが教えていてくれたら、私は迷わずに映像作家の道を志していただろうと思うと残念ではならない。

なんで、これらのことを誰も教えてくれなかったのだろう?そして今現在もこれらのことを声を大にして語る人がほとんどいないのはなぜだろう?いたとしても大きく取り上げられないのはどうしてだろう?
この画面の進行方向の読み方がわかれば、映画評論のやり方なんて変わってしまうはずなのに、どうして誰もそうせずくだらない映評ばかり世の中に出回っているのだろう?
未だ、私にはわからないことばかりです。


業界の体質(人気職業で人使いが非人道的)、業種の性質(洗脳刷り込みのプロ)だからでしょう。
そして観客のうちのほとんどが頭あんまりよくないから、であるとも思います。

そんな原因プラスに、インテリが権威主義的に文化を取り上げてきたこともあるでしょう。
富野由悠季エイゼンシュタインや古典的な映像理論について触れていますけれども、
「へーそうですか、えらいですねー、すごいですねー」で済ませています。実践的な範囲超えた空理空論とか権力意識剥き出しの理論に対する彼の冷たい態度、
素敵です。
そして、日本の制作現場が理論教育を怠って、なんでも現場で覚えろ方式でやってきたから人材が育っていない、と、ある意味の日本文化批判も書かれています。

大人になってこういう本を読んでしまうと、あまりにもの考え方の類似に、「自分の精神は子供時代に、このおっさんに強姦されたんじゃないだろうか?」との疑いを持ってしまいます。

まあ、それはいいとして、
私のブログの題名は、『映画の見方』であくまでも見る側の立場からの話であり、富野由悠季の本には節々に現場での血と汗と罵声が読み取れるのですが、私のブログにはインスタントコーヒーや安酒を片手にDVDのリモコンを操作している様子しか読み取れないでしょう。
それは仕方の無いことですし、また悪いことであるとも思いません。
むしろ、いろんな作品をより公平に見ることができる立場の人間がいろいろ見てみた感想を書き綴っているのですが、

どう考えても富野由悠季より正しいことを私は行っているという箇所がありまして、
富野由悠季は、画面の<−進行が、人間の心臓の偏った位置に所以する生理的原則と言っていますが、

しかし、洋画は−>進行であること、日本映画でもテレビとの交流が始まる以前ではー>進行が普通であることを考えても、
生理的必然性の問題とは違うはずです。

なぜ、富野由悠季が「心臓の位置」云々という理屈を持ち出したのかと言えば、彼がアニメの演出を始めた60年代、そして70年代には、恐らくテレビ屋と映画屋の反目があり、彼はテレビ屋の意地として自分たちの<ー進行のほうが正しいと思い込もうとしたのではないでしょうか。

今では、日本映画界に−>進行の画面で映画を撮る人はほとんどいないでしょうが、市川崑とか篠田正浩は最後までー>進行の画面をとることにこだわっていました。
意地の張り合いというか、反目あるんでしょうね、ー>派と<ー派には。



私が当ブログで語っているのは、
画面の方向転換はサブリミナル的に観客の意識に作用しているということですが、
サブリミナル的に作用している故に、
映画の場面々々を思い出そうとした時に、
「右向きだっけ左向きだっけ」、というのはほとんど意識上に上がってきません。
例えば、『スターウォーズ』のXウィングがデススターの溝を疾走するのは右向きか左向きかということも別に意識されず、
観客には、ただ粗筋や漠としたイメージだけが記憶されます。

そんな人生で見た映像作品の中で、このシーンは確実に右か左かを覚えているというシーンがいくつかあります。いや、右か左か覚えているシーンはそれらいくつしかないといった方がいいでしょう。

そのうちの一つが『機動戦士ガンダム』のラストシーン。
アムロが救命艇の仲間の方に飛んでいく方向は<−でした。
富野由悠季の映像理論を考えると、当然そうなりますし、そう印象づけるための工夫が前の部分においてなされているのでしょう。
そして、ガンダムでは、主人公が何を求めていたのか、何がテーマだったのかは、あのシーンからだけでも大凡わかるような気がします。



ガンダムに導かれて、見つけてしまいました。
nuryougudaさんのブログ

上の図ほとんど私のものと同じでしょ?
赤と青の矢印、ポジティブ・ネガティブで分けているところも同じです。



この『映像の原則』最近再版されるに至り、この画面の進行の法則が昨秋に一部のアニメファンの間で話題になっていたようなんですが、それらの人たち、おおよそのアニメファンに共通するてんだとも思うのですが、
富野理論を検証するにあたり、富野作品で確かめてみたって、
そりゃ、富野由悠季、その左右の理論に沿って画面作っているんですから、そうなるに決まっていますよ。
なんで、宮崎駿の作品群で確かめてみないんだろう?
なんで、アメリカのアニメで確かめてみないんだろう?
なんで、普通の映画で確かめてみないんだろう?

ほかの人の作品で検証しようとせず、心臓の位置と<−進行の関係性について生半可な知識漁るだけで終わらせている。

富野由悠季が常常アニメファンのことを批判している言い草で、
「アニメしか見ていない、視野が狭い」ってのがありますが、それ、当たってるわ、確かに、と思いました。

映画の上座・下座

(映画の抱えるお約束事)と(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)。当ブログの理論についてまとめ]てあります。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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