『ミノタウロスの皿』  マンガは映画とどのように違うのかについて考えた

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。

SF少し不思議藤子F不二雄

アニメとマンガを比べてみた






もう一度『ミノタウロスの皿』を取り上げます。

マンガは映画の影響を受けているとは言われますけれども、それは具体的にはどのようなことなのだろうか?

真面目に考えたことはありませんでした、私。
映画を左右方向で見ることを始める前は。

しかし、画面の進行方向に留意し、カットがどのようになされ、どのようにつなげられているのかに注意して映画を観るようになると、
マンガに対しても、いままでと全く違った見方ができるようになります。
否、違う見方ではなく、同じ見方なのですが、
自分がどのようにマンガを見ていたのかが理論的にはっきり自覚できるようになったのですね。




これは何度か取り上げた『ミノタウロスの皿』の一部です。


似た形のコマは内容も似ている。
まず、このように考えることは出来ないでしょうか?



なぜ、ほとんど同じ内容をいくつかのコマに分けて描き分けるのか?
私が考えるに、そのコマの並びは、時間の経過を示すのが主目的なのでしょう。個々のコマにそれ以外の大した意味はないように見えます。それゆえ、小さめのコマに描かれているわけでして、


そして、もう少し視野を広くしてマンガを見てみますと、

コマの高さ、幅の共通するコマには、何らかの共通要素が見て取れます。
この場合では、小さめのコマもしくはコマ群が大きめのコマの補足をしていると考えられます。

この場合、右側のコマは花札のデザインのように安定した構図であり、絵による状況説明がしっかりできている上に台詞もあります。
そして、左側のコマ群は、この状態のまま時間がいくらか経過したことを示しているにすぎません。


上の小さめのコマは、移動を表示し、前後のつなぎを良くすることが主目的のようです。その移動の先に集落が見えていることから、そこに女の子と同様の親切な人たちが待っていた最後のコマとのつながりには、何の意外性もありません。
つまり、どちらか片方があれば十分なところで、このあとの物語の進展のことを考えると、最後の大コマの方が大切なのでしょうが、
私としては、男を背負って長々歩ける女の子の体力に萌え要素を感じてしまい、捨てがたいコマだと思ってしまいます。



そして、このコマの集合体ですが、
右側の大コマの構図はやはり花札の構図のように安定しており非常に説明力が強い。
しかしその反面、安定しすぎており、そこに動きと流れを作り出すには、不安定なコマをいくつも付属させる必要があるのでしょう。
可愛い女の子との出会いの衝撃的な喜びを素直に表現するかの如く、左側の細かいコマは、斜線で構成されています。


また、このコマの集合をまとめてみてみると、
女の子の姿は、中心に据えられ、まとまった形を形成していますが、男の子の方は周辺に飛び散っている。
女の子に注目が集まるようにコマ群が構成されているのですが、
「女の子が来た」「顔は美形」「手を差し伸べてくれた」という具合に説明してくれるのですが、
「顔は美形」「手を差し伸べてくれた」のコマの方は、映画で言うところのPOV(主観カメラ)ではないですか。
男の子の目線と、我々一般読者の目線を混線させて物語につよい共感を持たせようとしているのがわかります。

それと比べると、男の子の方は、読者が物語にのめり込むための単なるエージェントに過ぎないわけですから、構図の中心から除外されるように三つに分けて配置されています。



これらのことを考えると、この見開きページは、四コマ漫画と同じ起承転結の構造を持っているのがわかります。
宇宙船が難破した ー>瀕死の状態ー>天使が現れたー>助かった

起の部分が弱いですけれども、それは、起の部分はこのページに先行する部分とこのページをつなぐ役割をしているだけなので、弱くても構いません。
これは、本来四コマ漫画ではないのですから。



つまり四つの要素で成り立っている見開き2ページですから、視線はこのように動いて構わないと思います。
細かいところを飛ばし見しても、マンガを味わう楽しさを損ねるとは思えません。


なにも、活字の本を読むように端から順々に読んでいく必要はないわけです。
そして、このように視線がうねってページの上を流れるのですから、見開き2ページの中の起承転結は、そんなにむちゃくちゃすごい展開があってはいけないのですね。あくまでも妥当な流れの中で収めておかねばならないわけです。
とんでもない展開に持って行く時には、ページを繰る時をまたねばなりません。
基本的に、マンガ本の見開きの画全ては一度気に視界に入るものですから。


そう考えると、マンガを芸術として取り上げる場合、どのような点に着目すればいいのかと申しますと、
見開きを一単位として成り立つマンガは、ペラペラの一枚の絵画と違って、時間の経過が描き込まれているものなのです。
我々がちらりと一目で見開きのにページを見たときに、そこに時間の流れ、それも緩やかな心地よい流れがあるのですね。

リヒテンシュタインがマンガの1コマを拡大したのが現代美術だとみんな思っていますけれども、
私から言わせりゃ、あんなもん、
ってなとこです。私たちみんな権威には弱いですからね。