『機動戦士ガンダム』のOPから見えること それとウルトラマンシリーズのOPについて

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





これはyoutubeの動画で、OPの歌に二番目と三番目をくっつけて編集されたものです。

原作マンガのないアニメですが、富野由悠季虫プロで『鉄腕アトム』の演出を数多く担当していた人ですから、当然<ー方向に激しく傾いて進行する画面です。

それはとりあえずおいときまして、OPの全カットを見てみますと、























となります。

主人公のアムロと彼の操縦するガンダムのカットを取り上げると、

アムロ <-三枚 −>二枚となります。

ガンダムコアファイター <-六枚 −>三枚としておきましょうか。



画面が<―方向に進むのですから、主人公がその方向に向かうのは当たり前といえば当たり前ですが、興味深いのは、脇キャラたちの扱いです。

おもちゃ会社がスポンサーになって、制作資金はおもちゃの売上により回収するという戦略の子供番組ですから、OPの画面でガンダムがどういうおもちゃなのかを存分に示さないといけないという縛りが見て取れます。
ガンダムはどのような色彩でどのような形状なのか?どのような変形機能を持っているのか?どのような武器をもっているのか?
というような超合金化されたときに子供たちがこだわるであろうポイントが効率よく説明されています。
富野由悠季は『勇者ライディーン』で超合金の売上記録を作ることに貢献した人物ですから(もっとも中途で降板させられましたが)、このような企画書の内容が透けて見える仕事も手際よくこなしております。

おもちゃ販売戦略として、ガンタンクガンキャノンも登場しますが、それぞれ二回の登場カットの内、一回ずつ−>向きになっています。


ガンタンクとかガンキャノンが世界を導くわけではないですから、それでいいのでしょう。

このブログで言っている画面を<―に偏って進行させる技法というのは、サブリミナル的な技法ですから、見ている人にわかりにくく偽装されているほど効果的になる類のものでして、主役キャラが<−に偏っていることをカモフラージュするために、脇キャラを−>に向けるのでしょう。

このように画面を構成していくと、嫌が応でも主役キャラが目立つことになります。

そして脇キャラをこのように配置すると、本来の敵キャラであるジオン軍モビルスーツ−>向きの場合、ガンタンクとかガンキャノンジオン軍に見えかねないので、ジオン軍はワンカットのみ。それもその他大勢扱いで正面からの引いた構図です。

「一応こういうやられキャラ用意しております」的な言い訳のカットでして、
スポンサーがクローバーだった時には敵キャラの商品化は考慮されていなかったはずですから、これでよかったのでしょう。

ただ、オモチャ製造権利がバンダイに移行してからは、敵キャラのプラモが金のなる木だったことが分かってしまい、それ以降のガンダムシリーズのOPではもうちょっと敵キャラもちゃんと映しているぞ。


話は、本題に戻りますが、アムロの扱いに関しても<-三枚 −>二枚





―>の二枚のうち、一枚目の方は、そのまま画面が引いていって<−方向に反転していますから、本来は別のカットとはいえないものです。



二枚目の―>にしても、よくよく見てみると、顔は<−向きで、目だけが−>です。


このカットは、アムロ以外の主要キャラ三人が<−だから、釣り合いを取っただけ。

そして、一見釣り合いをとっているように見えるけれど、アムロの顔は<−であり、その一見したところのバランスの良さというのは、主役キャラが著しく<ーに傾いていることのカモフラージュと思われます。


ちなみに、脇キャラの扱いですが、全部で四カットある内、<−カットは一枚、−>カットは二枚、正面カットは一枚であり、唯一の<−カットは、全体のバランスを整えるため、

そして正面カットも、本来は<ーであるはずなのが、四人で人数が多いので、それが<−カットだと画面の勢いが強すぎてアムロの印象が弱くなるから正面にして引いたカットにしたのでしょう。


「きみよーつかめー」のカットですが、アムロが伸ばしている手が右手であるのに対し、その他キャラはみんな左手を伸ばしております。

何か物をつかもうとしたら右手を伸ばすだろう、左手伸ばして何かつかめるんか?と、よくよく見てみるとそう思うのですが、何も考えずなんの問題意識も持たずにこのOPを見ているとそういうことを思ったりはしません。ただ、アムロガンダムを目立たせるためのサブリミナル技法にいいようにやられているだけです。
まあ、アムロに導かれて他のキャラも伸びていくという話ですから、これでいいのかもしれませんが、何かを掴むときに左手を出したりせんわな。
仮にアムロ一人が左手を伸ばしているのなら、彼は左利きだ、で話が終わるのでしょうけれども、
その他キャラが七人で左手伸ばしていたら、本当はおかしいと思ってしかるべきなのですね。


ウルトラマンタロウ

このOPは、ほぼ完全な左右対称で構成されます。そして意外なことに主役のタロウも篠田三郎も登場せず、基地とメカだけの登場で、
おもちゃ販売戦略としては、本来印象の薄い飛行機とかドリルとか売れればウハウハなんでしょう。

ただ、脇メカ総登場ですと、どのメカがイチおしでどれが抱き合わせということもないでしょうから、非常に平等な画面、つまり正面カットに左右交互のカットの構成になっています。
こうすると、どれも突出しない代わりに、妙な安定感を感じるものでして、

<−一方向に画面が進展すると、成長と変化の過程が描かれるようにおもわれてしまいますが、左右対称の画面を見せられると完成形の安定した画面のように見えるのですね。

人間は、むかしむかしから建築に左右対称のものを好んできましたが、本能的にそれが建築として最も安定していることを見抜いて、安心できる頼り甲斐あるものと感じ取ってきたからなのでしょう。
そして、崩れない、壊れない、安定している、ということは、そこで語られるべき物語というものは、既に終わっているということでもあります。

だから、ウルトラマンタロウのOPは、それを見ただけだと、番組本編ではどんな物語があるだろうと予感させるものが何もなく、単なる玩具の顔見せショーに過ぎないわけです。まあ、良く出来た顔見せではありますけれど。

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ウルトラセブン

これも左右交互の画面構成ですが、諸星ダンとセブンの影絵は<ーであり、最後にセブンが<ー方向にふっと消えます。
全体として左右対象の安定した印象を作りながらも、主役はちゃんと目立たせるという技法が使われており、おもちゃを売ることに専念しているタロウの方と比べると正統派のOPであると感じられます。

ちなみに『ウルトラマン

画面バックのたなびく煙がみょうに艶かしく、破壊の現場の様子を思わせてくれるのですが、
なんで、ウルトラQの怪獣ばかり登場するのだろう?と昔から思っていました。ネロンガ以外は、全部ウルトラQの怪獣ではないですか。
よくよく考えると、一話の放映の時には、ネロンガ登場の三話くらいまでしか撮影すんでなかったの上に、まだ怪獣のデザインが揃っていなかったのでしょう。
そしてウルトラQでは、怪獣が主役で、世界の驚異を描く番組だったのですから、怪獣=やられ役 ウルトラマン=主役 という図式でOPを構成することができなかったのでしょう。だってカネゴンウルトラマンが戦うわけでもないですから、−> <−の構図を形成することは無意味なわけです。

怪獣もウルトラマンも共に世界の驚異・不思議という扱いのOPです。


ちなみに『ウルトラマンA

ウルトラマンと同じ理由で、本編にかかわらない怪獣ばかりでてきます。すげーパチモンくさいメイドインチャイナ的発想のOP。
歌も軍歌っぽくて、つらいです。


ちなみに『ウルトラマンMax』
東宝が関わらなくなってからのウルトラマンシリーズって、歴史に残るのか?単に該当世代だけの狭い支持に留まるんじゃないか?と思っているのですが、

黒部進桜井浩子佐野史郎満島ひかりの名前にちょっとびっくり。
ただし、この画面、今までのウルトラシリーズのOPをなぞっただけで、なんの野心も感じられない上、歌のレベル低いよな。ウルトラマンウルトラセブン帰ってきたウルトラマンが神レベルの楽曲なのに対して、ジャーニーズレベルのクズ歌です。作品はともかくとして、この歌は絶対歴史に残らない。







すっかり話が脱線してしまいました。

ガンダムのOPに話を戻します。
私の考えるところの画面の進行方向操作のセオリーは(映画の抱えるお約束事)と(日本映画?ガラパゴス?)の中にまとめられているのですが、
そのセオリーから逸脱している画面について考えると、その映画の個性がわかると私は考えています。
いかにしていかなる時にイレギュラーな反応を示すかが、その人、物の個性であるというのは、全般的に言えることだと私は思うのですが、

このOPの歌詞と画面は大体対応しているのですね。
「君よー 走れー」 

画面も走っています。

「巨大なー 敵をー」

画面に敵いっぱいいます

「撃てよ撃てよ撃てよ」

確かに弾撃ちまくっています

「君よー つかめー」

本当に手伸ばしています

「銀河へ向かって飛べよーガンダム」 

そのままです

言われてみりゃその通りなんですが、今までこんなふうにガンダムのOP見たことなかったです私。
画面で歌詞の説明してる、もしくは歌詞で画面の説明していたわけで、
それではこのシーン
「まだ怒りに燃える…」



このカットで、アムロー>からターンして<ー側に銃を撃ちます。
何故、主人公が一瞬とはいえ−>側を向かなくてはいけなかったのかを考えるにあたり、

これはガンダムの物語のターニングポイントを簡単に要約しているものだと理解いたしました。

映画が抱えるお約束事)の中で、映画においてターニングポイントは、画面のターンで表現されると書いております。映画とは見て分かる、見て感じられる、ものであるべきでして、分かる感じられる故にコミュニケーションの道具として成り立っているわけです。
だからターニングポイントは実際にそのポイントでターンして示してくれるものですが、

つまりどうして、アムロが兵士として銃を撃ちまくるようになったのかの瞬間をターニングポイントとして捉え、その原因は「怒り」であると非常に高らかな声で語っているのですね。

ガンダムにしたところで、ウルトラマンと同様に放送開始時には物語の概要は決定しているものの細部に関しては数話分しか用意されていなかったはずです。それゆえ、このOPは、物語全体をまとめているというよりも第一話のアムロが初めてガンダムに乗り込むエピソードを手短にまとめているのでしょう。

怒りにかられてガンダムという破壊装置に乗り込んだら、そのあまりの破壊力に自らも唖然とした。
このOPを補助線として私がガンダム第一話の話を要約するとこうなります。

そう考えると、このアムロがやたらと好戦的で、ピストルをバンバン撃っている姿も納得できます。

「甦る、甦る、甦る・‥」の箇所ですが、

いつ、ガンダムは黄泉に逝ったんだ?黄泉に逝っていないのなら甦る必要などないだろう?という疑問は、歌全部を通して聞くと、理解できました。
一番目の歌詞が「怒り」についてなら、二番目の歌詞は「倦怠感と恐怖」についてなのですね。それゆえ戦場の恐怖からのリハビリされてよみがえる必要が三番目に出てくる必要があったわけです。ちなみに三番目の歌詞は「愛と平和」について。
つまりこの歌詞を書いた時点で、富野由悠季の頭の中には完全にガンダムの概要が出来上がっていたことがわかります。
そしてそれぞれが、映画三部作のテーマとほぼ一致していることに思い当たります。

まあ、しかし、第一話放送の時点で、「甦る」に対応する作画なんか出来ていないですし、細かい話も詰められていないはずですから、その歌詞に対応する画面作れなかったのでしょう。

そして、一番歌詞と画面が対応していない箇所
「正義の怒りをぶつけろ、ガンダム

この箇所は、本来ガンダムの趣旨とあっていないと思われるところで、
ガンダムって勧善懲悪のマジンガーZ的世界観からとことん外れた作品であるべきなのですが、
そこにかぶせられる画面がこれまた、変形ロボットの仕組みの説明画。
このシーン、20話あたりで視聴率が下がってきた時に、スポンサーのクローバーから横槍が入って、もっとおもちゃの宣伝をしろと厳命された時、アムロが空中で合体練習しているという設定でなんども本編中にも登場してきます。

こういう、オモチャ番組のお約束事を当時の富野由悠季はおそらくとことん嫌っていたと思うのですが、そこにあてつけるように「正義の怒り」とかの一番ガンダムらしくない歌詞が重ねられております。

このことから私が推理するに、OP画面には、必ず変形合体のシーンを入れることという企画上の縛りがあったのではないでしょうか。そしてそれに対して、一番やる気のない歌詞の一行を被せたということなのではないでしょうか。なんというか、イヤイヤ加減な絵とやる気の無い言葉がしっかりと手を握っているように見えてしまいます。


私が、子供番組のOPの画面を好んで取り上げるのは、それら作品への愛着を子供時代に強烈に刷り込まれているということもあるでしょう。そして、その刷り込み体験のない『ウルトラマンMax』に対してはとことん冷たい態度を取っています。
しかし、子供番組のOP画面は、大人番組のOPと比べると、出し惜しみをしない点で非常に好感度が高いです。例えば、大河ドラマのOPを思い浮かべてみると、主人公が直に登場する画面などおそらく一つもないでしょう。なんとなくつながりの有りそうなイメージが映るだけで、物語全体を短い時間で説明しようという意志はまるで感じられません。
それが子供を相手にしていると、子供って我慢できないですし理解力低いですから、ウルトラマンにしろガンダムにしろ未来少年コナンにしろ、極めてわかりやすく説明してくれるのですね。だから、そこだけを見てても画面の方向操作と物語の内容とテーマについて語ることが可能なのです。何も本編全て見なくても大丈夫なわけです。


私、映画の画面の進行方向について書いておりますが、全体通してみないと、なかなか進行方向は見えてこないものです。
自転車に乗っているシーンは気持ちいいから<ーだろうとか、人が殺されたシーンだからー>だろう、というのは先入観であって、
自転車が物語全体の中でなんの役割を担わされているのか、殺人事件は物語の中でどんな意味を持っているのかは、全体を通してみないとなかなかわからないものです。

そして、その中で、通常のセオリーから外れた使い方をされている画面進行のシーンの意味を考えると、たいていの場合、その映画の個性が理解できる、私はそのように考えております。