SF すこしふしぎ  藤子F不二雄

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。









わたくし、この電波ブログの最初の方で、映画は画面の向きと進行方向を恣意的に行なっていることの説明で、漫画をちょっと取り上げております。
そして、日本映画だけが<ーの方向に進むことの理由の一つとして、マンガのアニメ化テレビ放送があるのではないか、ということを指摘してみたんですが、


そこで、使用した漫画の見開きが、藤子F不二雄の『ミノタウロスの皿』でした。

マンガの場合、ページをめくる必要がありますので、必然的に物語の進行方向は、<ーになります。

このことは漫画書いている人なら分かることでしょうし、実際指摘している評論家もいますし、ネット上で漫画の描き方として解説している人もいます。

しかし不思議なことに、映画も同様に恣意的な方向があることをネット上で語ったりする人は私以外にいなんじゃなかろうか?と思ったりするわけですが、どなたかいらっしゃるようでございましたら、教えて頂きたく存じます。

手塚治虫が、漫画の描き方を学ぶにあたり、チャップリンの映画を参考にしたということをインタビューで語っていました。

以前、わたくし、サイレント映画のオワコン臭は尋常じゃない
と書いておりまして、トーキー以降の映画とサイレント映画は別のものと考えたほうがいい、と書いておりますが、

サイレント映画って、今の映画よりも、むしろ漫画に近いのではないだろうか?手塚治虫もマンガを書くにあたりサイレント映画を参考にしたと言っていますから、実際そうなんじゃなかろうか、と思うんですが、

この、藤子F不二雄の短編を切り貼りしてyoutubeにアップされたものを見てみますと、確かにサイレント映画と近いです。

見事に画面は<ーの方に進みます。

それに、2分目のところで主人公がタロト氏の家を訪問するときに、ー>向きに切り替わるところなど、映画のカットつなぎと全く同じことが行われています。

非常に興味深いのは、三分台のところで、<ー向きのキャラクターが主人公からタロト氏に切り替わることですが、

物語の進行方向をむいている人物というのは、物語の目的をしっかりと見据える位置にいるわけでして、謂わばホームにいる状態です、
それに対して、逆側にいる人物はそれが見えていない位置にいるわけですから、物語の展開に主体的に関わることができない人物であります。


この藤子F不二雄の短編では、何をテーマにしているのか?と言えば、必ず降りかかるであろう問題に無関心な人間の姿が一番恐ろしい、ということなのでしょう。

タロト氏が主人公を差し押さえて、<ーを見ています。


漫画は編集者やアシスタントが関わる共同作業の側面もありますけれども、映画と比べるとはるかに個人性の強い作品です。

この短編では、主人公もタロト氏も所詮作者の考案した人物であり、それらの人物の主張とは別に、作者の主張が紙面上の方向としてはっきりと見えるのですね。

役者という別の人格のフィルターを通して監督の意図、脚本家の意図が表現されるとい迂遠なこともありません。
映画と比べると、実にストレートに表現されていると感じられます。



この作品、ほとんどこのままでも映像化できるよなと思われます。
サイレント映画調に、このyoutubeのフォーマットを生かしたままで映像化するのも良し、
普通のアニメ調に映像化するも良し、ですが、

元が映画とほとんど同じカットつなぎですから、実にスムーズに映像化できるでしょう。

問題となるところは、タロト氏の演技と、孫が画面上でどのくらい絡んでくるのか、の二点くらいでしょうか。


そんな妄想がつらつら頭に去来するのですが、私のような映画の見方をする人間がマンガについて考えると、
どうなるのかというと、


映画とは、画面上の方向が、後の展開の伏線になっているのでして、漫画においても似たようなものとは思うのですが、
しかし、マンガのラジカルなところというのは、
ページを開いたとき、

左手のページの一番終わりのコマまで、否応なしに視界に入ってしまうのですね。
注意はしていないかもしれないですけれど、それでも、強調された大ゴマなどは、否応なしに目に飛び込んでくるでしょう。
それだから、見開き内では、意外などんでん返しがあってはならず、複雑な小回りをされているように見えても、あれは、二ページでひとつの作品なのです。

岡田斗司夫勝間和代との対談で、漫画本の自炊に反対していたのは、なるほどこういう理屈なのだろうと思います。

活字は、自炊でどれだけ換骨奪胎しても構わないけど、漫画は見開きでひとつの情報単位なのですわね。

ちなみに、私のこの「映画の見方」は元ネタが、じつのところ、岡田斗司夫BSマンガ夜話BSアニメ夜話だったりします。
ああいうふうにしつこく作品を見ていくことが、このような私の「映画の見方」の元になっているのです。


見開きでひとつの情報単位、ですから、2ページ内で、無意識に訴えるような伏線を張る必要があるかというと、おそらくないのでしょう。
あほらしい言い方ですが、ページを開いた時に、読者はもう左手の最後のコマに至る展開が大体のところ意識の奥に入ってきてしまっているのですから。

逆に、ページをくるごとに、このような<ー方向の流れはリズムを断ち切られているのではないか、と思われますし、
ページをくったあとに、どんでん返し的展開を見せる技能は漫画特有のものであるのでしょう。