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『キックアス』 ハッピーエンドのタクシードライバー

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)もどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。


ああ、この映画、『タクシードライバー』のパロディーじゃん。というか、『タクシードライバー』自体私の中では、ドンキホーテのパロディーなんですけれど。

キック・アス
あんまり思い入れを強く感じるような作品でもないのですが、この映画について語ることが、この電波ブログの内容を整理するにあたり有効なのではないかと思いたち、いろいろ書いてみようと思い立ちました。



映画とは基本的にこういうもんです。画面は向かって右に進行し、その行き着く果てに物語の目的が待っている。そして主人公はそれを追求する。

しかし、主人公の能力の限界や、状況がかれに味方しない場合は、その物語の進行方向に沿って進むことができなかったり、その方向を向くことさえできないもんです。


『キックアス』、主人公は何の能力もないオタクですから、基本の立ち位置は、画面向かって右側です。
ただ、正義のヒーローになりたいと願う欲望が、常人離れしていますけれど、能力的には何ら突出したものがありません。


そんな主人公が、どのように目標を見つけていくのか、そしてその目標にどうやって近づいていくのかが、物語というものなんですが、


彼がそんな異常な願望を持つに至った原因は、母親の死であると語られます。
母の死により、彼は目的を見つけるのですから、
母親の死の場面では、彼は物語の進行方向−>をむいています。

ターニングポイントという単語がありますが、映画に於いては、ターニングポイントで本当に登場人物の向きと立ち位置が変わります。
ほら、上の二枚の画像では主人公の左右の位置と向きが入れ替わっているでしょう。

映画とは、小説と違って言葉で説明するのではなく、画面で情報を伝えるのですが、どのような形で情報を観客に伝えているのかというと、画面上の位置、方向を利用しているのですわね。時として、それらの情報は役者の演技以上に意味を持ってしまったりします。


尤も、目標を定めたからといって、直ぐにそれが実現できるわけでもありませんし、また目標を持ったからといって急に自分が変われるわけでもありません。

目標ができただけでは、自分は相変わらず、弱っちいオタクのまんまなんですから、すぐに挫けそうになったり、尻込みしたりしてしまうので、

そういう弱気なシーンというのは、大抵主人公は

こちら側のポジショニングをしています。積極的に目的を追求していない登場人物にはこのポジショニングがふさわしい。

なんで、映画に於いて登場人物が頻繁に画面上のポジショニングを変えるのか、どうして登場人物の方向が左右に切り替わらないといけないのか、その理由というのは、実は、
彼らの状況と心理を画面上の立ち位置で説明しているからなのです。そしてこの説明というのは、観客に対して無意識的になされるものです。
これを読まれている皆さんも、言われてみるまで気がつかなかったでしょ?今まで何百何千と映画やドラマを見てきたというのに、気がつかなかったでしょう?
でも、別にそれはあなたが特別にボンクラというわけだからではありません。これを書いている私だってほんの一年前までは、こんなこと思いもしなかったのですから。
そして、
時には、製作者も無意識に、この「立ち位置」の情報を送っていることもあるでしょう。
絵コンテを書くときに、主人公は右むいてるべきか左むいているべきかなんとも判断付き兼ねて、適当に撮影してしまうこともあるとは思いますが、それらのシーンも完成してみると、妙にはっきりした意味を持ってしまったりすることもあるのではないでしょうか。

また、映画では、心や状況の流れというものは可視的であるべきと考えられているようです。だって、映画の登場人物たちとは所詮二時間程度の付き合いではありませんか、そんな短い間に、私たちは彼らの何を理解することができるのでしょうか?
もし映像が彼らの内面のみを映しているのでしたら、観客にとって登場人物は、通りすがりの見知らぬ人に過ぎないのではないでしょうか?
私たちが限られた時間の中で、赤の他人であり更には架空の人物たちのことを理解したり共感できたりするのは、彼らの心の中を覗き込むことができているからです。
この世の中にも、心理学の修練を積んだ人や、特別に勘の鋭い人などは、他人の心が読めるでしょう。
しかし、ほとんどの人にとってはごく身近な人の心さえ誤解したままなのが普通です。
しかし、そのような現実と比べると、映画の主人公の気持ちというのは極めて理解しやすくないですか?コミュニケーションの濃度としては実に味気ないものであるにもかかわらず、どうして映画の登場人物たちのことがわかったように成れてしまうのでしょうか?

サブリミナルコミュニケーション

私たちの現実の世界では、人の心に色や形があるわけでもありませんし、嫌な状況の流れにも色や形はありません。
しかし、映画にはそれがあるのです。というか、それがあるから映画なのです。
人の心、そして状況に対する評価というのは、人物たちの背景によって描かれることが非常に多い。
そして、これらの印象操作も、基本的には観客には無意識的に受け止められています。
そういうものであると自覚した上で注意して画面を見ていないと、なかなかわかるものではありません。

人の心を背景で表す


主人公が、おずおずと友人にスーパーヒーローのことを友だちに話すシーンですが、彼らがダベっている店の前を黄色い車が−>の方向に走っていきます。
物語の目的というのが−>の方向に有り、どうやらそれはスーパーヒーローになることであるようなので、
この黄色の車の動きは、見るものに画面上の流れとしてヒーローたり得ることがありうるかもしれないと納得させる為のものです。
いい状況の流れというものを映像で表現するときには、登場人物に−>方向に移動させるという方法もありますが、
全く関係ない車とか飛行機、さらには雲とか煙突の煙を−>方向に動かすことで、その状況の流れを表現していることもあります。

本来、物語の進行にほとんど関係のないものですから、観客の方はそれらの動きに実は気をとめていない場合がほとんです。しかし、気をとめていないからこそ、無意識的な領域で説得力を感じさせられることになるのですね。

映像におけるこのようなテクニックを私は「天使」と呼んでいます
映画に於ける天使の存在
『檸檬のころ』に於ける天使
おもいでぽろぽろに於ける「天使」



店の中で、完全に確信を持てないながらもヒーローになる希望について友だちに話す主人公。
この完全に−>を向けない斜に構えた感じが、彼の心のあやふやさと対応している。




映画の画面はこういう仕組みになっているのですから、画面上の位置を反転させることには、相当に強い意味が生じます。
鏡とは、その点で一瞬のうちに人物の向きを反転させるに都合のい道具でして、
人物の虚像と実像の関係を表す道具として使用されてきた長い伝統と歴史があります。

タクシードライバー
レイジングブル
地獄の黙示録


鏡の前で、コスプレして、すっかりその気になってしまった主人公。
鏡像はつまり虚像であり、それが、物語の目的方向−>を向いている。本人自身は<ーーとネガティブな方向をむいているのですから、これは本来精神的に不健康な状態です。

自分の虚像と実像を勘違いした人間の行き着く先というのは、この映画の場合では、

こういうことです。

そして、ここで第二のターニングポイントが主人公に訪れます。
手術を受けて、骨が頑丈になり神経が抜かれて痛みを感じにくくなって、一応ヒーロー的なことをやるのに都合のい体になるのです。

このレントゲンのシーンとさっきの担架のシーンで、体の向きが左右ひっくり返っていることにお気づきになられたでしょうか?


ついでにここで映画で常套的表現である「北枕」について解説いたしましょう。

画面上、目的達成へのポジティブな動きが常にー>と流れているのであると見ている側は無意識領域で認識しています。
そして、いわばそちら方向の流れの残像がが画面に重なっていると言えるわけでして、

進行方向に沿って頭を起こすのは簡単のように感じられないでしょうか?
それとは逆に進行方向に逆らって起き上がるのは、

非常に負荷のかかる厄介なことであると感じられるでしょう。

それゆえ、画面向かって右側に頭を向けて寝ている状態を、私は着目して映画を見ていたのですが、

どのような場合、この「北枕」で寝ているのかというと、
死んだ人の場合。もしくはもう死んだも同然の人の場合。もしくは命に別状はないけれど、内面的に何かがオフ状態になっている人の場合もあります。
たとえば、心を閉ざしている人、妄想に浸っている人、死んだように深く眠っている人など。

臨終の場面では −>向きを、<−向きに切り替えることで事切れたことを表現することがお約束事化して久しいです。


死人の場合はともかく、妄想に浸っている人がシラフに戻ったり、深く眠っている人が覚めたりする場合には、
この「北枕」をうまく解除しなくてはなりません。

そうしないと、「ゾンビ起き」になってしまいます。
「ゾンビ起き」というのも私造用語なのですが、画面の自然な流れに逆らっての起床方向は、怪物映画でよくあるパターンであり、



この方向の起床は、この世ならぬ者のこの世への目覚め、もしくはこの世の者のあの世への目覚めの場合に使われることが極めて多いです

「北枕」という技法
ナウシカにおける「北枕」
未来少年コナンにおける「北枕」
千と千尋の「北枕」
天空の城ラピュタの「北枕」
檸檬のころの「北枕」
合理的説明の欠如した「北枕」

この手術のあと、ある意味での改造人間になって蘇った主人公は、その新しい身体ゆえにヒーローになれる可能性が高まったように感じ、真面目に体力トレーニングを始めます。
この辺の過程が非常にタクシードライバーに似ているのですが、

今度は、鏡の前に立つときも、実像がー>向きであり、虚像が<ーであります。
このように画面を構成しますと、主人公の実像が目的達成に向けて前進しているように感じられ、おそらく何か手柄を立てるだろうなという予感が観客の心理に生じます。


ここでの台詞も、ほとんどタクシードライバーとおんなじです。

タクシードライバーの場合は、見ていてイタいと感じるのですが、それは、自分も似たようなことをやっているもしくはやりかねないという理由からくる痛さなんですが、
この「キック・アス」の場合は、さすがに他人ごととして笑っていられます。もしくは、このイタさというのは、まんまタクシードライバーからのイタダキであることから来るイタさだったりします。


更に言うと、タクシードライバーでトラヴィスが初めて発砲したのは、雑貨屋に押し込んできた強盗を射殺した時でした。
キック・アス」では、ヒーローとしてのデビュー戦の直前に雑貨屋によりますけれど、そこで店員に怪訝そうな目で見られます。
まあ、普通に考えれば、あんな格好して彷徨いているのはヘンタイに決まっていますから。

ただ、傍観者の群れを尻目に、パトカーが来るまで頑張り続けた主人公は、しっかりと−>の方向をむいています。

自分のどうしようもない人生を変えようとしていたところ、ふと霊感が寄り付いて正義のヒーローになることを思い立つ。そして現実を無視して自分の信じるヒーロー像に自分の実像を摺り寄せようとしてボロボロになる、
こんなふうにストーリーを要約すると『タクシードライバー』も『キック・アス』も全く同じ話です。

更に言うと、ヒーローになりたいという欲望に性欲が大きく絡んでいるのも、両作品に共通しています。

ただし、無茶を承知で、犯罪者の温床に単身乗り込んでいったあとの結果はかなり異なります。

『タクシードライバー』では13歳の娼婦を救出するために売春置屋に撃ちいるのですが、
キック・アス』では、単身チンピラの巣窟に乗り込むと、あっさり返り討ちに会い、そこで11歳の少女に助けられます。


こちらは、クロエ・グレース・モレッツ『エスター』のイザベルフォアマンと同じく11歳の時の演技。
吹き替え箇所スタントによる代替箇所はあるでしょうが、バタフライナイフの使い方を含め多くの箇所を彼女本人がこなしている。その運動神経の良さには感服。
イザベルフォアマンの場合は、大人のドロドロした内面を表現する演技でしたが、
クロエ・グレース・モレッツの場合は、子供らしさを体現するのが演技の内容のようです。父親が死んだからといって深く悲しむ演技を期待されていたわけでもありません。
ちいちゃな女の子が、めったやたらと強い、そのギャップが面白いわけでして、覆面で顔を隠しながらも、可視部分より子供らしさが明白に伝わる顔月をしていたことが、彼女がこの役を獲得できた理由ではないでしょうか。
マスクから垣間見える目、鼻、口の幼さは、イザベルフォアマンの大人ビタ顔つきとは対照的。


『タクシードライバー』と比べてもなんとも冴えない『キック・アス』ですが、その代わりにこちらの主人公には、ちゃんとしたハッピーエンドが約束されていました。めでたしめでたし。


九死に一生を得て帰宅し、いつものように鏡の前に立つ。
やっぱり自分の正体は冴えないオタクなんだと主人公が再認識するシーン。
またもや彼の虚像と実像の位置が反転している。結局、ヒーローになるという目的を叶えたのは彼の虚像に過ぎなかったということを画面だけで表現すると、このようになる。

しかし、本当のこと言いますと、『キック・アス』は、この単身の討ち入り以降は、物語自体が完全なファンタジーの世界に逝ってしまうわけでありまして、
深読みすると、ヤクザのアジトに討ち入りしたあとに瀕死の重傷を負い、精神の異常をきたして以降、脳内お花畑が常態化した廃人の物語ということもできるのかもしれません。

まあ、あの『タクシードライバー』にしたところで、討ち入り後の裏町のヒーローとして有名になるというオチは、脳内お花畑が常態化した廃人としての結末という解釈もありますことですし。




あ、そうそう、『キック・アス』と言えば、谷村美月主演の『サルベージ・マイス』なんですが、
パクリだわな、こりゃ。

ネットで読むと、広島のみの公開でありながら、劇場に客五人とか、そういう映画らしい。
ファンとして辛いです。

谷村美月も、12歳くらいのとkに、『キック・アス』みたいな役が付けばよかったんですけど、如何せん、日本って映画の製作力と供給力がしれているでしょ?
生まれる国間違ったよな、彼女は、とか実も蓋もないこと考える今日このごろです。

もう彼女の主演映画ってなくなるんじゃないかと悲観的なことを考えて、暗くなってしまいました。