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前回の続き 『地獄の黙示録』 それでは、映画について語ってみましょう

最初にここ読んだら以下の内容がよくわかると思いますんで。


映画のレビューで一番多いのが、自分で勝手に映画の粗筋を解釈しておきながら、それについてどうこう論ずると言うパターンです。

まず、その解釈って、正しいの?
正しくなかったら、単なる独り相撲じゃないですか、というか、独り相撲という詞がここまでふさわしい行為もなかなかあったもんじゃない。


どういう物語だったかをべらべらべらべら語るレビューと言うのは退屈なんですが、雑多な場面の画面のつなぎ合わせから、どういう物語を読み取ったかと言う時点で、それはひとつの解釈なのですわね。
もう、ひとつの批評としては十分なんですよ、ただし、つまんないですけど。


だから、そんな自分が読み取った粗筋を元にレビューするくらいなら、キャプチャー画像に対して語ったほうが、遥かに信憑性、客観性が高いよな、と私には思われます。
そんでも、どこのどんな画像をキャプチャーしたかというのも、ひとつの解釈であって、自分の解釈に対して自分の意見を述べていると言う謗りからは完全に免れ得ないとは自分でも分かっておりまするけれども。
そんでも、伝統的なレビューの方法よりかは遥かにましだと言う気はしております。

なんか、一人、ネット社会の奥でぼつりぼつりカーツ大佐みたいなことを口走っておりますが、ここらで、いつもどおりの映画の見方を『地獄の黙示録』という私が一番好きなはずの映画に適用してみませう。


映画の進行方向



映画と言うのはこういう風に画面が流れるように決められたメディアです。
結果として主人公がこの方向に動いていくと言うものではなく、元来この方向に動くのが初期設定としてきまっているのです。
そして、いつ、主人公が向きを変えたかとか、主人公と同じ方向を向いているのは誰と何なのかとか、主人公と逆を向いているのは誰と何なのかに着目していけば、その映画を理解できる、というのがこの電波ブログの趣旨であります。

あまりにも単純な法則で成り立っているのがこのブログの規則なのですが、その規則を元に私がかたっている内容は、少なくとも私から見た場合極めて妥当なものに思えるのですね。


画面にはあらかじめ進行方向があり、その向こうに物語の目的があると設定されている。映画とはそういうもんですし、これはアメリカ流の脚本作法の「まず物語の目的を設定する」というものに対応しております。
物語の目的をまず決定し、それを追及するのが主人公であり、それを阻害する要因を設定することで物語のうねりを作り出します。



物語の目的を追求するのが主人公なのですから、主人公の基本立ち位置は目的の所在の方向を向ける位置、画面の向かって右側となります。
そしてそれを阻害する悪役等の立ち位置は向かって左側となります。


ちなみに、主人公がその基本の立ち位置を放棄した場合、どうなるか?と申しますと、物語の流れが主人公にとって逆流しています。これは主人公にとって困難な状況であり、ただ逆流に耐えている状態、目的の追求を放棄した場合を表現することになります。

世の中には、『地獄の黙示録』以外にも分かりにくい映画があります。『ブレードランナー』は今になってみるとそんなに難しい映画でもないような気がしますが、それでも分かりにくさゆえ公開時には、ラストを差し替えられることになりました。『甘い生活フェリーニの作品ですが、散漫にエピソードが続いていくだけの退屈な作品という意見が今でもかなりの割合の人に支持されています。
私のみるところ、これら三作品に共通する要素と言うのは、基本的に主人公が流されるだけで目的を追求しないと言う点です。
ウィラード大尉にしろ、デッカードにしろマルチェロにしろ、ただ命じられるままに特異な状況に投げ込まれます。そしてほとんどその状況を変えるために何かしようとはしません。ひたすら傍観者的に振舞います。
主人公が目的を追求しないのだから、アメリカ式の脚本作法では、これらの作品は物語として成立していないと言う烙印を押されかねない危ういものであるのです。
だから映画として面白くないとか下らない映画であるとか、そういう問題とは別ですけれども、
主人公が、主人公の低位置に立って目的を追求できない作品と言うのは、「この映画は何を言いたいのか分からない」と言う感想をもたれやすいようです。
そして、主人公を取り巻く環境が以上であればあるほど、観客が映画に求める目的は、完全にかすんでしまい、
「なんか変なものを見ちまった」的な印象をもつだけでお仕舞いにされてしまうことになりかねません。

こういう、主人公が傍観者である映画は、ジャングルなり都市の退廃なり未来の荒廃なりの本来の背景が主役であると解釈して、瑣末な箇所をちくちく楽しむと言うやり方のほうがより的確であるように思われはしますけれども、

映画に於いてより注目すべきなのは、傍観者である主人公が、どことどこで主人公の立場に戻り、目的を見据えていたのか、もしくは見据えようと努力したのかに於いて現れる、
私にはそのように考えられます。


この映画では、ウィラードの立ち位置だけでなく、カンボジアに向かう船は、基本、<−に向かって進みます。
これは、ウィラードには、カーツに会いに行くという目的はありますけれども、なぜ会いに行かないといけないのか会ってどうするのかという目的は、実のところよく分からないのですね。
一言で言うと、主体的に目的を持たず、流れに流されるままにカーツに会いに行く訳でして、自分で何をやっているのかよくわかっていない主人公に共感するというのは観客にとっては、割とつらいことです。観客と言うものは上から目線で映画をみているものですから、主人公の苦悩を本気で共有したいとは思っていないもんです。目的の分からない主人公とともに、物語の目的の不明なままに時間も三時間も耐えることが無理なのが普通の人間と言うものです。


任務を申し渡されても、まだベットで寝ようとするウィラード。物語の目的を無視して惰眠むさぼるにふさわしく<−向きですが、


やってきた兵士に無理やりー>と、物語の目的方向に方向付けられます。

単に眠気覚ましに無理やりシャワーを浴びさせられるシーンですが、
やりたくて始まった任務ではないですから、このようなカットのつなぎがふさわしいのでしょう。

このようなことを考えていくと、果たしてこれは戦争映画なのだろうか?と言うことに思い至ります。元ネタの『闇の奥』からして戦争映画ではないのですから、どうやらこれは戦争映画ではないのではなかろうか、分けのわからない状況に突っ込まれて何かを見失うだけの話なのではないか?と考え込んでしまうのですが、
よくよく思い返してみますと、ベトナム戦争に於いてアメリカ軍が戦っていたベトナム解放軍の姿が、この映画にはあまり出てこないのですね。出てくるとすればロバートデュバルのヘリコプター部隊の強襲シーンくらいでしょうか。
それ以外は、直接的と交戦するシーンがないといっていいのではないでしょうか。
こういうのを戦争映画というのか?誰と戦っているのかよくわからないのに戦争していると言えるのだろうか?と言うことですが、

実はこの、誰と戦っているのか分からないという構図は戦争映画の傑作としては王道路線だったりします。
西部戦線異状なし』にしろ『突撃』にしろ敵は敵軍ではなく、
何と何の争いを描いているのかと言えば、
平和時の常識VS戦場の現実 だったり、  軍隊機構の非人間性VS生身の人間だったりします。

敵のほとんど見えない『地獄の黙示録』では、ウィラードたちは何かと戦っていたのかと画面の方向をチェックしつつ考えるのですが、

解放戦線の拠点の村を強襲するために出撃するヘリ部隊。

物語の進行方向とは逆のネガティブ方向<−に向かう。たかだかサーフィンするために、出撃すると言う異常行為への嫌悪感を表明するかのようにネガティブ方向に出撃。

このシーンが西部劇の騎兵隊の出陣シーンになぞらえられたものであると言うのは、よく言われる指摘だが、ラッパを吹く方向と部隊の出撃方向が食い違っていると言うのは、普通にあることなのだろうか?
もしかすると、これは、古きよき時代の分かりやすい正義の形は、ベトナムの戦場では見出せない、と言う意味の映像表現なのだろうかと勘ぐってみる。


ヘリの飛んでいく方向が<−主体なのだから、それを迎え撃つ解放軍はー>であるべきなのだろうが、
そのような古典的な陣地戦の描写とは異なる表現が使われえいる。

ひとつには、機動力の高いヘリコプターの投入された戦場であり、ヘリが戦う姿を描こうとするなら、画面の方向は頻繁に切り替わることになる。

また、物量的に遥かに劣る解放軍は、互角の戦闘を行えていないので、−> <−の戦闘が成り立っていないとの解釈も可能であろう。

つまり解放軍は敵ではないということなのだろうが、それなら、ウィラード達の敵は何だったのだろうか?

キルゴアのようなガイキチ紙一重の軍人が敵なのだろうか?というと、日常世界の常識を持ち出して、そのような解釈を無理強いしようとする人がいるわけです。そういう解釈を成り立たせるためには、このシーンが映画のクライマックスであるべきだ、と言うような主張を往々にすることになるわけでして、
そりゃ、こういう狂った軍人、狂った軍隊がラスボスであると認識するなら、当然そういう脚本にすべきなんでしょうが、『地獄の黙示録』ってそういう映画じゃないでしょ?
自分の日常生活になじんだ「常識」から考えて、『地獄の黙示録』の脚本構成が狂っているとかたわけた事抜かす前に、『ゴッドファーザー』でもみてから、コッポラは常人ではかなわない相手とまず理解したまえよ、と私は思うわけです。

あまりのキルゴアの飛ばしっぷりに、ウィラードは目が点になってたりしますけれども、
では、画面はウィラードとキルゴアが戦争でもしているかのようにー> <−の構図を作り出しているのかと言うと、そういうことも無いわけですわね。




キルゴアは、右を向いたり左に進んだり、かなり縦横無尽に画面を歩き回ります。映画の台詞で「キルゴアは部下思いのいい軍人のように思える」とウィラードの語りが入りますが、
たしかに、頼りがいのある上司であることは否定できない事実でしょう。
映画の観客として彼をみた場合、みる者を楽しませてくれる心憎い脇キャラであって、「平和が一番」とかそういう観点から憎むべき相手にはどうしても見えないのですね。

ウィラードたちが誰と戦っているのかが画面から見えてこないことと同様に、キルゴアが悪人なのかどうなのかという判断さえ画面からは見えてきません。
ろくでもない側面を持っているというのは、まあ誰でも分かるとは思いますが、唾棄すべき人間なのかというと、結局よく分からないです。というか、分からなくさせるべく、画面がつながれていっているわけです。

みる者の判断を停止させる、分け分からなくさせることに心血注いでいるのが、このヘリの強襲シーンでありまして、
「この映画は一体何を言いたいのだ?」とみていて疑問に感じることは、実は一番正しいことなのではないでしょうか。
「よくわからなくなってきた」、おそらくそう感じることが主人公ウィラードに共感する一番の近道なのでしょう。

では、この映画には、明確な敵が画面上のベクトルとして示されることは無いのか?よくわからない、結局何がいたいのか分からなかった、で済ませるべき映画なのか、と言うと、決してそうではないのですね。

実は映画の最初の部分で、ウィラードが何と戦っているのかがはっきり示されます。


主人公は、本来目的の存在する−>の方向を向くべきであり、その為に画面の向かって左側に立つべきなのですが、


その本来の自分の居場所を、虚像であるとして、打ち割ってしまいます。

このシーンを単なる気まぐれで差し込まれたものであると解釈しないのでしたら、
この映画に於いて主人公は何と戦っていたのかの問いには、冒頭のシーンで答えを出していたわけです。
つまりこれからの3時間自己否定を延々と描いている映画な訳です。
そして、物語の目的を見据える−>側の立ち位置を最初に否定してしまっているのですから、物語の中には、目的が何なのかがほぼ見えなくなってしまっています。


それまでの価値観、安住できるモラル、祖国アメリカへの信頼、そういう既成の価値観を否定することが河をさかのぼる過程で描かれ、否定した後に何が訪れるかをカーツの王国で描いている、私には、そう見えるのですね。

この自己否定というのは、ウィラードの主役個人のものではなく、おそらく監督コッポラのものでもあり、更には、観客も共有すべきものなのでしょう、


この、カメラ目線のこぶしを固めるシーン。結局、彼が一番の敵だと認識して殴り壊すのは自分の虚像ですが、もし可能であるとしたら、みている観客を殴りつけたかったのではないでしょうか?


冒頭の鏡を割るシーンではドアーズのジエンドがBGMに流れていますが、これがラストのカーツの暗殺のシーンへと繋がっています。


ウィラードは、もともとマックウィーンに振った役で、ブランドと派手に戦うシーンが初期段階では想定されていたそうですが、
出来上がった作品を見てみますと、キルゴア同様カーツ大佐も、ウィラードとー> <−の対立構図を画面では作り出してはいません。別に敵ではないのです。


結局、この映画で、ウィラードが主体的に行動するのは、このカーツ大佐の暗殺を実行することのみ。
しかし、それにしたところで、それは本当にこの物語を貫く目的と言えたのだろうか?
暗殺に向かうウィラードの視線は基本的<−とネガティブ方向。



切りかかるウィラード <−方向。


それに対し、カーツは−> <−の構図で向き合っているかというと、実は同じく<−であり、単に背中から不意打ちしたと解釈することも出来るだろうが、実は二人は対立関係にあるのではないと解釈も成り立つはずである。



そしてカーツに止めを刺す場面には、ウィラードは−>に向き直る。

冒頭の鏡を割るシーンで、物語の目的を失った主人公が、ここでやっと本来の目的を見据えることの出来るポジションに返り咲いたとでもいわんばかりのカット繋ぎ。


つまり、自己否定の過程を終えて、自己再発見に至ったと解釈できるシーンですが、
ではそれでハッピーエンドだったのかと言うと、
どうもそうでもなさそうです。


カーツ臨終の言葉は、呪いのように今後もウィラードについて回るようです。それゆえ、カーツ死してもその頭の向きは変わらず「北枕」しません。


相変わらず、船は<−の方向にしか進めなさそうです。
新しく生まれ変わったはずなのに、その新しい自己には、それに見合う新しい目的が見出せない。

ベトナム戦争以降のアメリカの実情と言うのは、そのようなものであったのではないでしょうか?

60年代以降、世の中何か生み出したんですか?結局拝金主義だけでしょう?
じゃあそれ以前に何かあったんでしょうか?無知と因習に対するノスタルジーだけじゃないんですか?



と言う具合に、『地獄の黙示録』を語ってみると、実は「よく分からなかった」と言う感想が一番正しいのではなかろうか、という気がしてきます。
ただし、何が分からなかったのか?位は各自自覚的であるべきだろうと私は思います。