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『エスター』 

2013年6月18日
この1か月ほどの間、このブログのアクセス数の8割方が、このエスターに関するものになっており、わたくし驚きました。



2013年10月29日

そして、こいつらがことごとく、私が考えるところの馬鹿なんですね。


大体、これ、とあるサイトで、
「ラストの読めない映画」のナンバー2になったことで、わたしのブログを「エスター ネタバレ」で検索する人がどっと増えたのですが、

ラスト読めない映画 を ネタバレ で検索するって、あんた ほんものの馬鹿ですか?ってとこです。









この映画、ホラー映画なんですが、ホラー映画というのは、映画の画面進行的には難しい問題を本質的に孕んでいます。

アメリカ流の脚本術的には、主人公というのは物語に於いて目的を追求する存在であります。

普通のホラー映画というのは、ささやかな幸せや平和の様子を序盤に於いて描写し、中盤以降にそれらをズタズタにしていくことで、激しい落差ゆえに見ている者をやるせない気持ちにしてしまうのが定石ですが、
その平和な光景の中にビジバシと伏線を織り込んではいきますが、それでも、その段階に於いては登場人物が何らかの目的を追求しているということは余りありません。

それゆえ、ホラー映画の序盤というのはメリハリが乏しくて退屈で、早く誰か死んで盛り上がってくれ、などと不謹慎なことを思ったりすることが多いのですが、

前回取り上げた『エイリアン』の場合などは、エイリアンを孕んだ乗組員が宇宙船の中に担ぎこまれるまでは、主人公のシガニーウィーバーは、ほとんど何もしません。
つまり、物語の中に恐怖の種が撒かれて発芽するまでは、恐怖から逃げるというホラー映画の主人公がとるべき当たり前の行動が採れないのですから、物語の目的を追求することが出来ないのです。

『エイリアン』では、シガニーウィーバーが主人公であるらしいことが観客に分かるまでに30分以上も掛かってしまいます。
主人公が分からない、誰の目線で映画をみていったらいいのか分からない、これでは映画に観客はなかなかのめりこむことは出来ないでしょう。
『エイリアン』の場合は、その設定の異様さと造形美でこの辛い30分を乗り切ってしまい、誰が主人公かわかりにくい状態を、誰が生き残ることができるのかわからない緊張感に転化していきますが、
本当にしょーもないホラー映画だと、この序盤の仕込段階で見る方は寝てしまいます。

尚、( → 、画面の進行方向 )等の意味については、
『映画の抱えるお約束ごと』
の方をどうぞ。

『エスター』ですが、この映画の場合、モンスターは、小さい女の子でして、彼女が幸せな一家に惨劇をもたらすのですから、事実上彼女が物語の進行役で、ズダぼろにされる家族の側は基本蛇に睨まれた蛙のごとく受け身です。
物語の進行方向がで、
ズダぼろにされる家族の側はエスターに対して有効な手立てを打つことができませんから、物語を進めている方向とは逆の向きが大半です。
その反面、悪役であるはずの、
エスターは基本向きで、物語の目的をみている位置、すなわち観客の目線とエスターの目線が一致しやすいのです。
うる
エスターの陰謀が徐々に露呈してきて、一家の母親との間に闘争が開始すると、平和な家庭を取り戻そうと奮戦する母親がの方向を見据えて行動することが出来るようになるのか?物語の目的は、彼女の奮戦に収斂していくのか?と申しますと、なかなかそう単純な物語でもありません。
エスターが悪い子だってのは分かるんですが、映画のカメラの在り方からも犠牲者目線で物語をみる事がなかなかできないのですね。

極悪な少女エスターですが、みているこっちとしては、彼女に痛い目に合わされる連中というのは、大概いけ好かない連中ばかりで、骨折ろうが死のうが観客の立場としては知ったこっちゃないわ、というのが実感です。
日常生活の常識的には、こういう不幸にあっている人には同情し助けなくてはいけないのでしょうけれども、
たかが映画の画面を通しての虚構の人物に対する観客の態度としては、まあ、
しったこっちゃないわな、と。

この家の長男、そんなに愛らしい子供でもないでしょ?さらに言うと母親にしたところでそんなに素敵な人物でもない。人の私物、隠れて検分するような人物ですし。
この家庭を守り通すことにそんなに価値があるのか
その辺の観客心理というのは、エスターが基本向きのポジショニングを与えられ、のポジショニングを取るときは周囲のものを欺くときに偏っているという事実によって完全に支持されています。


エスターがいけ好かない学友を滑り台から突き落とすシーンですが、画面の進行方向に向けて落下する犠牲者というのは、なかなかいないもんです。
はっきり言いまして、映像編集理論的には、この子供の墜落は物語にとってポジティブな評価与えられているということです。


画面の方向を読んでいくと、この映画というのは、エスターという33歳の少女という怪物が、平和な家庭にもぐり込み、そして大人の女として大人の男に抱かれたいという目的を追求する物語なのではないでしょうか。
母親が家庭を守るという話ではなく、第一、守るに値するような家庭、この映画には提示されていないでしょう?
結局、エスターの目的は失敗しますが、もう一つのラストシーンとしてDVDに収録されているラストでは、現実の見えなくなったエスターが警察のほうに向かって大人ぶった態度をとりながら階段を下りていくものです。

こんなラストシーン、彼女が物語の進行方向に歩いていくシーンがアウトテイクとして存在するということは、この物語の目的というのは、暗黒少女が大人の女として認めてもらいと願うことだったのだろう、と確信してしまいます。

もしくは、ぬるま湯のような社会の中で、一人だけ修羅を知っており、それゆえに一人だけ目的が見えている登場人物とでも申したらいいでしょうか。

母親は、エスターと対決して家庭を守ろうとはしますが、完全に受身で、先手を打つエスターにひたすら押し込まれます。エスターの素性を知ろうと電話したりはしますが、映画をラストに導く、33歳のホルモンバランスの崩れた少女というオチも、結局棚ボタ式に彼女に知らされるのみで、母親は目的に向かって果敢に行動したという印象をみていて感じられません。物語を回すための歯車として存在するのでしょうけれども、実のところ、完全な脇役ではないでしょうか?
むしろ、裏の事情をほとんど知りながらも何もできなかった娘のほうに観客は感情移入してしまうかもしれません。
観客というのは、物語の奥まで知る権利を与えられておりますが、物語を動かす為に指一本触れることさえ禁じられており、立場的にこの娘に近しいのですね。
ある意味、この娘がこの物語の影の主人公といえるかもしれません。




そして、エスターの女の子、イザベル・ファーマン、
不気味少女を演じてはいますが、いくら不気味さを煽ってみたところで、基が美少女なのが丸見えですから、なかなか嫌いになることができません。

ラストで母親との対決に敗れて湖中に沈んでいく彼女ですが、その直前まで不気味なメイクで婆くさく顔を作っていたのが、全部剥がれて、美少女の素の部分が出ています。

ちなみに映画に出演していたときは11歳、いま14歳だそうで、

素顔、やっぱり、美少女ですた。




感情を爆発させる演技が出来れば子役として重宝されるそうで、そういえば谷村美月も子供のころからそれが上手かったそうですが、
イザベルフォアマンのこのトイレで暴れるシーンもテンションも高い。ただし、これは、そんなに難しい演技ではないと思う。ただやれと言われた時にやるのが難しいだけで。

そして、この演技の意味づけというのは、演出と編集によってかんぜんになされている。つまり、演技以上のものをみる者は感じることになるわけでして、
この前に来るシーンが精神科医のカウンセリングを彼女が受けて、まんまと医者を騙すシーン。
彼女は見事に医者を騙せて、本来はニンマリすべきなのでしょうが、一人トイレにこもるときに、逆に自分の本当の欲望を隠して子供のふりをしたこと、そして医者が自分の本当の欲望本当の姿に全く気づかずに自分を子ども扱いしたことに、猛烈に腹が立ってくる。
彼女にとって、自分の体がいつまでも9歳のままだというのは、彼女の人生を狭い折に閉じ込めておく絶望なのでしょう。
それゆえ、激しく、トイレの個室で暴れてしまう。

ただし、このような感想、印象、解釈は、11歳の女の子の演技というよりかは、演出と編集の妙というべきでしょう。

子供に不道徳な役を演じさせることが、演じた子供の人生にどのような悪影響を及ぼすか?
ということですが、

谷村美月でもジョディ・フォスターでもいいんですが、もしローティーンの頃に売春婦とか殺人鬼の内面を理解したうえでそのような役を演じたとするなら、精神的に相当に問題残るだろう気がするのですが、

いかがなもんでしょうか?

役作りのためだと言ってシリアルキラールポルタージュいっぱい読まさせられたり、売春の実態について勉強させられたりすることは、健康的なことには思えないのですが、

それゆえ、子役の演技というのは、内面から掘り下げるというよりも、外面をテクニックでそれっぽく見せることに終始しているのだろう、と私は推測しているのですが、

谷村美月の子役時代の演技というのはそういうものであり、
エスターにおけるイザベルファーマンの演技も、映画の演出と不可分のものであります。


そんなことを考えつつ、この白いバラのシーンに戻ってみますと、やっぱり主人公はエスターであり、物語の目的は彼女のものだと思われてなりません。

「なんで、私が、流産されたお前の赤ん坊の代わりにならないといけないんだ?私には私の個性、私の人生、私の幸せがあるのに。なんで、お前のお人形にならないといけないんだ?」

ね、やっぱり、人に単純な型にはまった幸せを押し付けようとする人は殺されても仕方ないんですよ。少なくとも映画の中では殺されないとみている側は納得できない。





ホラー映画で恐怖を煽るやり方には、二通りありまして、
・画面構図に、本来モンスターがいてしかるべき空白を見せておく手法
・モンスターの目線の移動をカメラの移動に偽装して、モンスター接近を表現する手法
があります。

『エイリアン』では、一つ目の手法を多用しており、
『エスタ−』では、2番目の手法を多用しております。

エスターの身長から見える光景、エスターらしき人物がみているはずのアングル、エスターの視線の移動を模したカメラワーク、そういうものが多用されていますが、
そのほとんどはブラフだったりします。それでもエスターは何でも知っているんだぞ、どんなことでもみているんだぞという、不気味さをBGMとあわせることで観客に刷り込んでいきます。
でも、まあブラフなんですが。


後、ちょっと気になるシーンですが、
エスターと養父の出会いのシーン。
イマジナリーラインの侵犯をどういうときに行うかの非常にわかりやすい例です。
イマジナリーラインの不可侵ルールというのは、一つのシーンを撮るに際し、登場人物の左右のポジショニングを安易にひっくり返しては駄目だというものですが、


養父になる男をエスターが気にいって微笑かける。この画面はエスターがホストで養父がゲスト


ここでは、
二人の向きが逆になって、養父視点の画面。彼は握手する為に手を差し伸べる。ただしかし、彼にはエスターの正体が見えていないので、エスターの姿はほとんどキャンバスの裏に隠れている。


これがいわゆるイマジナリーラインの侵犯というやつでして、同じ場面、登場人物の立ち位置同じにもかかわらず、カメラが二人の目線の間を越えたところに移動することで登場人物の左右がひっくり返っています。

イマジナリーラインの侵犯というのは、何かが切り替わったことを無意識的に観客に伝える為の技法であり、それが何を伝えているのかがここまで分かりやすい例、映画の教科書に使えそうな例というのも、なかなかあるもんじゃありません。




≪関連≫『ファーマン一家は才能一家』『イザベル・ファーマン情報』


2014年11月19日

富野由悠季の『映像の原則』を読み直しているところですが、

私のこのブログの内容は、『映像の原則』第五章とほとんど同じなんですが、

2012年の一月半ば以前の記述に関しては、直接マネして書いてるわけではなく、ただいろんな映画のDVD観ながら書いてただけなんですが、




違うところがあるとすれば、
画面の方向操作の効能の根拠は、

『映像の原則』の場合は
人間の生理的条件に根差した普遍的なもの らしいです。

わたしの場合は、
観客の注意の及びにくい部分を使って、登場人物の心を表現し、それに無意識に観客を同調させる作為的な技法 という事でして、


もちろん、わたし的には、自分の書いていることの方が正しいと思ってます。
このブログの目次
まあ、それでも大体のところにた様なことばかりですが、




『映像の原則』五章の最初にこんな図が書かれていて、



と同じ方向の連続だと 何かが続いているように見える。




と逆方向になると、変化・対立があるように見える。


ごちそうさん


泰造の気持ちに変化が現れたことを、画面の向きひっくり返すことで表現しているんですが、


富野由悠季的には
「そのように見えないというのであれば、どうしようもないのですが…」という事らしく、



実際、わたしも何人かにこの手の話をしてみたところで、ほとんどの人が理解できないんですね。

つまり、
「そのように見えるんだけど、そのことにあまりにも無自覚である」人がたくさんいるだけなら、私が個人的にむかつくことが多いだけで、映像作品的にはむしろ本望というべきでしょう。
こういう、映像の技法は見ている人に無意識的に働くものであり、無意識的であるゆえに効果があるのですから。


しかし、本当に「そのように見えない」人がこの世界にはたくさんいるのかもしれない、
と思い始めると、

映画やテレビドラマって分からない人にはとことんわからないものなんだろうな、と思い至らざるを得ません。


このブログ、この半年間で、一番閲覧数の多いのは『エスター』について書いた回なのですが、


わたしからすれば、画面の進行方向を一一拾っていくと、当然こういう結論になりますし、

映画作った連中も私が感じたと同様のかなり反社会的な情念込めたはずの作品であり、それが映画の興行的成功への危惧につながりラストが差し替えになったことは、大体見当が付きます。


でも、
「そのように見えない」人たちって大勢いるみたいで、
映画内のことを強制的に自分の日常生活実感に接ぎ木することではじめて納得出来るらしい人、特に女性に多いですね、

母性は絶対正しいという科学風味の迷信でカモフラージュされた自己肯定欲、不倫はゆるせないという社会維持のルールを映画の物語の中にまで持ち込もうとする無粋さ、

そういう観点からエスターの物語を理解しようとしたとき、なんか面白いのか?と私は思ってしまいます。


「うっそー、そんな馬鹿いくらもいるわけないでしょ」と思われるかもしれませんけれども、
エスターのラストが差し替えになったという事実を思うにつけても、そういう困った人の方が世の多数派なのではないかという気がします。

このブログで散々取り上げているリドリースコットですが、彼にしても『ブレードランナー』『テルマとルイーズ』でラストが差し替えになっており、

画面上の方向で物語の無意識的部分を表現するという技法の一般的な効能の限界が、このことからも分かるような気がします。


こちらのブログ使うと、『映像の原則』の関連記事あさるのに便利です。まとめた方、ありがとうございます



以下は

 「 エスター ネタバレ 」で検索掛ける人の 典型的コメント例です。

綾綾 2013/10/29 01:01
分かりにくいですね
エスターを性欲少女扱いする貴方の変態性が丸見えです
一人でポルノでも見てはいかがです?笑


baphoo 2013/10/29 01:16
こちら「映画のお約束事」の回を読まれていないのでしたらたら以下の内容がよくわからないかもしれないとも思います。
→とか←の意味につきましては、ぜひともそちらをお読みください。

こちらを読まれてから、分かりにくいかどうかをもう一度判定し、それからもう一度私が変態かどうかを判定してはいかがでしょう。

とりあえず、あなたの知能指数は92程度と算定させていただきました。わたくし以前病院で人の知能指数検査の仕事をしていましたので。

http://d.hatena.ne.jp/baphoo/20120109/p1
ちなみにこちらの回なのですが、本文中にリンクで跳べるようになっていましたのですが、それ読まないとわからないかもしれない、と書いてあるにもかかわらず、
それ読まずに、分かりにくい、と書かれたのでしょう。

これらのことから
わたしがあなたのような人のことを何と思っているかは、分かるでしょう?


ハナ 2013/12/03 14:30
煽りにまじめコメントテラワロス、と

baphoo
綾とハナだと母音同じですから、同一人物だと思われやすいですよ。

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