『時をかける少女』   タイムトラベル映画の画面進行について

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。






ちょっと『時をかける少女』の映画とはそれた話をしますけれど、

この電波ブログの趣旨は、登場人物および物語の進行方向は画面の左右のどちらか一方に恣意的に決定されており、右に動くか左に動くかによってポジティブネガティブのどちらかの意味にを示している、
そのようになるべく映画は演出され撮影され編集され音楽がつけられている、ということについてであり、
世の中の99%の人はなぜだかわからないけれども、こんなに単純な事実に気がついていないどころか、世の中相当に偉い、頭いいと目されている人たちでもこのことに気づいている人はほとんどいないようです。

また奇妙なことに、この映画を成り立たせている根本技法とでもいうべきことについて他人におせっかいにも指摘してあげたところで、感心されたり尊敬されたりということはほぼありません。

非常に奇妙なことですが、ほとんどの人たちが夢にもこんな仕掛けで映画が出来上がっていることを思ってみたことがないにもかかわらず、そのことを知らされたところで、誰も驚きません。
近代道路では、道路の右側を歩くか左側を歩くかによって進行方向が決定されている。そしてその右左と進行方向の関係は各法律の下で恣意的に決められている。
そんなことあらたまって言われたところで、私のほうでもどうしていいかわかりませんが、


大概の人たち、映画では画面の左右のどちらに動くかでネガティブポジティブの意味を担うということを私から聞かされた人たちの反応は、ほとんど道路交通法がどうの…といわれたとしたら私が取るだろう反応と大差ありません。

その程度のことなんだろうと、ほとんどの人たちは映画の進行方向のことを思っているのでしょうが、

これを逆からいうとどういうことになるかというと、幼稚園や小学校で車は左人は右という刷り込み教育を受けてこなかった人たちが無自覚でありながらもなんとなく交通法規を守り続けてウン十年。その間一度も車は左人は右という事柄について思い巡らせることがなかった。

そういうことです。

そんな奴いるわけないと思うでしょ?まあ、私もそんな奴まずいないと思いますけれども、

映画の場合、言葉もろくに話せないうちからウン十年間何千本と見てきていながら、画面上に恣意的に進行方向が決められている事実について思い巡らしてきたことのない連中が99%というのが実態です。

さらにいうと、日本は左側通行ですが、これは明治期にイギリスをお手本としたことによるものであり、フランスをはじめ世界の半数以上の国は右側通行を採用しています。だから日本から船で一昼夜の中国に行ってみると、車が右側を走っているわけでして、

この件に関しては、日本において交通法規に無自覚なまま大人になり、日本においては車が左側を走ることが恣意的に決められていることについて一度も考えたことがなかった野生児がいたとしても、
中国の交通状況を見たとき、一目でこれは何かが違う、とわかるはずなのですね。どんな馬鹿でもそのことはわかるはずです。


似たようなことをいうと、日本では映画の進行方向は<−ですが、外国映画では 逆の−>方向に設定されています。

この違いなんて、一目見ればすぐに分りそうなものなのですが、意外や意外ほとんどの人たちが、日本映画だけガラパゴス的に進行方向が逆であることに気がついていません。日本人が気がついていないだけでなく、日本映画を見ることの多いアメリカ人でもほとんど気がついていません。

そして不思議なことなのですが、そこまで映画の進行方向ということについて無自覚であるにもかかわらず、そのことを私から指摘された人たちは、まったく驚かないのですね。そして道路交通法の初歩みたいなどうでもいい話としか受け取ることができずまじめに聞こうとしません。


私は再三再四このことについて考えてみるのですが、

映画に進行方向が設定されているにもかかわらず、その流れが一般の観客には全く見えていないという事実は、映画の進行の流れが観客の意識にサブリミナル的に左右しているからだろうという結論にほぼ到達しました。
そして、だれもが映画の進行方向の存在の事実に驚かないということは、このサブリミナル情報がほぼ完全に一般観客の識域下で理解されていることによるだろうと私は考えています。


まあ、一言で言うと、ほとんどの人間は自分の無意識に向き合おうとしない愚か者だということなんですが、

映画作っている立場の連中は、そういうことを分った上で観客の心を操作しようとしてくるわけでして、

映画には洗脳効果があるというのは、映画史の開闢期から言われていることですが、それが具体的にどのように人間心理に働いているかについては、あんまり真剣に論じられていないのではないか?私はそう思います。



以上あまりにも長い前置きでしたが、
基本的この電波ブログに到達される方は検索ワードで興味あることについて知ろうとされている方々であり、私の電波浴を目的にされている方はほとんどいないわけでして、
それゆえ一期一会的にこういうことを定期的に書かねばならず、
それゆえめんどくさいのですが、


時をかける少女』ですが、

映画が<−方向に進行するとはどういうことであるかというと、
前向きな登場人物は<−
を向いているということであり、肯定されるべき動作は<−方向に向けてなされるものであり、
それゆえ物語は<−方向に進展していくのですが、
物語が進展するにはどうしても時間の経過が必要でありますから、時間も<−方向に流れることになります。

普通の映画なら物語の進展と時間の経過の間に齟齬はありませんが、
タイムトラベルもの、それも過去に戻る場合では、
過去に戻ることが物語りの進展にとってはポジティブであるのに、時間をさかのぼることになりますので、画面を左右のどちら側に進めていいのかが分らなくなってしまいます。

タイムトラベルものの、すっきりしない感じや分りにくい感じは、意外にもこのような進行方向の混乱に依拠するものらしいと私は考えています。

映画ではポジティブな流れは <−方向の視線や動きで表されなくてはならないのに、
過去に戻ることが物語の目的に設定されているものを映像化すると、過去への移動は<−に向かうべきか−>に向かうべきなのでしょうか?