『おもひでぽろぽろ』と『コクリコ坂から』を比べてみる

レトロ調を売りにしたジブリ作品といえば、『おもひでぽろぽろ』が『コクリコ坂より』に20年先行しますが、
今になって思えば、よくこんな映画をジブリは制作したよなと思います。

『コクリコ坂より』でさえ、ジジババ対象にして子供置き去りにしてるだろ、と言われていますが、そんなもん『おもひでぽろぽろ』に比べれば何でもないような気がします。
有機農業とか60年代文化とか、かつての家族と話できない父親像とか20年前の子供が見たとき、相当に無理のある企画だったと思うのですが、

当時のジブリは観客動員力が現在の5分の1程度でしたから、これでよかったんでしょう。
それに当時はまだ、今みたいに中年のアニオタとかいない時代で、「大人も見れるアニメ」「大人向けのアニメ」とも言うべき子供を置き去りにしたアニメがあってしかるべきと考えられていました。


でも、この映画好きだって言う小学生も結構いるんですね。
物語の半分が小五の時代についてのものですし、あの頃大流行していた『ちびまる子ちゃん』風の演出も入っています。
その上、大人になってからの部分も山形での林間学校のノリで楽しむことができます。『もののけ姫』以前では、このしっかり描かれた木立の風景は衝撃ものでした。

あと、演出が凄いしっかりしているから、その辺は小学生にもちゃんと伝わるんでしょう。


アニメは、実写と比べて演技の部分、特に顔面の演技の情報量が少ないので、それを補うためにキャラに過剰な動きをさせている、ということを以前私は書いていますが、

この『おもひでぽろぽろ』、小学五年生の時は多少そういうのはありますが、大人になってからのパートでのアニメの演技は、ディズニーとか宮崎駿に見られる過剰な動きが全くありません。人間の演技を大げさにした部分もほとんどなく、実写の演技の必要な部分だけを取り出して、完璧に絵の上に映し変えていると私には感じられました。

映画そのものの出来以上に、アニメにこれだけ演技させることができることを知って私は驚いてしまいました。

それができたのは、ひとつには今井美樹柳葉敏郎に最初に喋らせてから、それに合わせるように顔を書いていったからというのもあるでしょうけれど、

それでも、そういうレベルのテクニック論を超えたものが確実にあります。


小五のパートで、別のクラスのピッチャーから主人公が告白されるときの場面、普通こんな地味で複雑な演技させるかよ、実写でもやらんぞ、というか小五で実写とったら、ここまでうまく演技させられない。

「この企画アニメで撮る必要あったのか」という意見も多々ありますけれど、小五にここまで演技させることって不可能だろ?という一点だけでもアニメにした理由で十分でしょう。

そして、当時はここまで背景きれいに描いたアニメがまだ他になかったですから、山形の農村の光景を91年当時の私は、実写よりもきれいに描けていると感じたものです。

あとそれに、60年代の光景、それに83年の光景を実写で再現するには無駄に費用が掛かりますし、当時はCGもあんまりリアルじゃなかったですし、


ジブリ内で、アニメ制作に於いて宮崎駿が唯一格上と認める高畑勲ですが、演出法は緻密で論理的でありながらも、ひたすら盛り上げるような手法に冷水を浴びせるようなシニカカルなところがあるように思われます。

クライマックスを盛り上がらないようにつくる点では、ジブリ内で唯一宮崎駿の言葉を無視できる宮崎吾朗とちょっとだけ似ています。もっとも彼の場合は、盛り上げたくても盛り上げられないだけで緻密でも論理的でもありませんけれども。


以下は、宮崎吾朗は出来ない基本的な演出です。


田舎の光景を表現する訳ですが、あえてクライマックスに水を差すようにステテコ腹巻のじいさんが座っています。

私、何回も、電車の映像に於ける意味というのは、進行方向と逆方向に視線をやれる点と書いています。

つまり物語の潮流と、人物の内面にくい違いがあることを視覚的に表現するには都合のいい大道具なのです。

今井美樹の体は、東京の方にむいていますけれども、心は田舎の方にとどまったまんま、ということを表しています。
映画ではよくある表現です。


都はるみがコブシを回さず素直な声で「ローズ」を歌います。ちょうど今井美樹が席を立ち上がるとイントロのピアノが鳴り出します。

それまで−>を向いていたのですが、ここで<ー方向に変わります。

普通、名場面を作るためのBGMは、<ー方向へのターンに合わせて挿入されます。

そうすることで「何かが変わった」ことが観客の心に鮮やかに伝わります。

このシーンでは、まず音楽ありきで、それに合わせるべく撮影されたもののようですが、
そうでない場合でも、音楽監督は、<ー方向へのターンを狙って音楽を載せていくのが常道です。

だから、そういう画面方向の切り返えのできていない映画は、音楽付けにくいはずなんですよね。
『コクリコ坂より』とか『崖の上のポニョ』みたいな映画って、どこに音楽のせたらいいのか音楽監督困るでしょう。



このブログの趣旨というのが物語は恣意的に進行方向を操作しており、日本映画では60年代以降 <ー
方向で画面が進むということですが、
物語の目的と目的地が『おもひでぽろぽろ』では<ーの向こうにあるはずなのですから、当然二人の乗った車は、その方向に走っていってハッピーエンドになります。

そしてそれ以外のシーンでは、<ーの方向に進めるか否か、向くことができるか否か、が目的到達への状況を表すバロメーターになっているのです。

普通の映画は、このように画面上の流れを操作していますから、コツをつかむとすんなりとその世界に入っていけるのですね。
逆に、宮崎吾朗みたいに方向の操作をしていない映画は、見ていて何を言いたいのかが伝わりません。




目的の実現にポジティブであるとき、人物は<ー方向を素直に向きますし、その方向に迷いなく進むことができます。一方心に迷いがある場合は、なかなかそうは出来ず、−>方向をむいたり、そちら側に迷走したりします。

だから、迷いを断ち切って、ポジティブな決断を下した場面にBGMをかぶせると鮮やかな印象が観る側の心に残ることになります。

宮崎吾朗の映画がくだらないのは、その程度のことも理解していない素人監督だからということです。


マジな話、高畑勲宮崎吾朗の作品どう思っているんだろう?