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『檸檬のころ』 実写映画での「北枕」

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





前回に、宮崎駿作品群はファンタジーである故に、非現実的方向に目覚める登場人物が必要であるので、彼の作品においては「北枕」の扱いが非常に特徴的なのではなかろうか?という私的結論に達したのですが、


そもそも寝室ってのは暗いですから、そんな暗い状況で明瞭にカメラに人の顔が映らない状況でなにも三カットも四カットもつないで人の起床シーンを描写する必要が実写の映画にあるのか?ということなんですが、

では、白昼の明るいシーンだったらどうなのかというと、それなりに「北枕」シーンはあります。

よくよく考えてみると「檸檬のころ」の谷村美月と林直次郎の出会いの場面は、「北枕」のシーンです。

死んだ人が甦って、正しい方向付けがなされるシーン。
まあ、普通の言葉で言うと、日常にろくなことが何もない女の子に、突如日々を輝かせるような人が現れて、そのおかげで自分が何を求めているのかがはっきりした。というシーンです。


斜めに傾いてはいますが、谷村美月「北枕」で寝ています。


そこに林直次郎が現れて、彼の影の口元の部分と彼女の口元がだいたい重なる間接キッス。



続くカットで林直次郎。彼の体が傾いているのは、寝転がっている彼女の目線が斜めになっていることを受けたもの。つまり彼女の主観目線カメラ。
そしてその次のカットでは、彼女の頭の向きは「北枕」から解除されている。つまりこの時に彼女は甦ったということであり、彼女を甦らせた理由はその前のカットの林直次郎。

ほんと、文章読むように画面が解析できていきます。



「北枕」解除されて、<−とポジティブ方向に起き上がるのを待っている谷村美月
ポジティブ方向に起き上がる>ポジティブ方向に進む>ポジティブ方向を向く
文章で書いたときに、重要度合いの重軽はこのようになると思われますが、映像にしてみたところで同じことでしょう。
それゆえポジティブ方向に起き上がることは、お約束ごと化された描写がなされることが多いのだと思います。

まだ谷村美月が起き上がっていないので林直次郎の姿は傾いています。これも当然谷村美月目線カメラです。


谷村美月が半身を起こすと、林直次郎のカットも傾きのない正常なものになります。

そして、それに続くカットでは、谷村美月の上半身は起きていて、下半身と上半身が直角を成しています。これは林直次郎と同じ姿勢であり、二人の間に同一性が見られる、同じ方向をむいているわけではないけれども共通した要素を持っている、そういうことを示しています。
映画ってパントマイムみたいに体の動きで内面を表現することが多いのですが、台詞に頼らないとしたら背景の無生物に演技させるか、体の動きで表現するかしないと、内面を表現することができません。

このブログで延々と書いていることですが、傍から見てわからない内面とは映像作品においてはゼロであり、それゆえたとえ作りごとであろうとも目に見えるように表現しなくてはなりません。その表現の説得力の強弱が演技や演出の善し悪しだったりするわけです。

二人は同じ姿勢をしている、それゆえ今後関係が深まっていく。運命の出会いというほど大げさなものではないのかもしれませんが、それを観客に直感的にもしくはサブリミナル的に認識させるには、このような手法が必要なわけです。
谷村美月の愛しそうな目線の演技からだけでも、恋のはじまりは観客には知覚できると思われますが、演技単独では説得力が弱いですから、いろいろな演出を付け足して補強しているわけですね。

そして、林直次郎は遠くの方を見ていて、谷村美月は彼の方をむいていて、二人の見ている方向がまるで違う、というのが、結局二人の関係の行く末を示しているように感じられてしまいます。


そういえば


最初の一目のシーンでも、二人の体が画面に形成する角度はほぼ同一です。林直次郎の体が傾いているのは仰向けになっている谷村美月の目線を装ったものなのですが、斜めになっていれば右に傾いていようが左に傾いていようがおんなじなのかというとあくまで谷村美月の体と同じ方向に傾いていなくてはならないのですね。そうしないと二人の共通性を映像で表現することができない。もし、林直次郎の体を逆の方に傾けて谷村美月と逆の方向に体がむいていたら、二人の間に恋みたいなものが始まるなんて観客は思わないでしょう。


そしてこれは谷村美月が、くだらない日常生活から輝ける日々へと起き上がるシーンなのですから、二人の傾きの方向はぜったい画面向かって左側で「北枕」側でないといけないのですね。

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