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『となりのトトロ』

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





植物を育てていると嫌でもわかることなのですが、動物ほどではないですけれど、植物も臭かったり汚かったりします。
水で腐った植物の臭いというのは、中年オヤジの臭い息と大体同じでして、中年オヤジも胃中で穀物青菜などをどろどろに分解しているのですから、植物も水で腐ると似たような臭いがして当然でしょう。

「田舎ぐらしイイ」とか言っても、臭い汚い虫がいる的側面はあるのでして、既に初老に入りかけている世代ですらそういう田舎の側面に対処できない日本人多いですから、宮崎駿的な自然崇拝って現状に即していない頭でっかちのものに私には感じられるのですが、
だいたい宮崎駿って東京生まれの東京育ちで、田舎の実態には疎いだろう、そしてアニメの世界に入ってからはワーカホリックですから、田舎のことにそんなに詳しくないだろうと思うのですが、



主人公の乗る三輪は<ーの方向にどんどん進みます。それは田舎に入り込んでいくというよりも、自然あふれる環境に入り込むという類のものであり、その田舎は田舎者のホームグラウンドという感じもしないのですね。
それは主人公家族と田舎者の邂逅のシーンの扱いのあっさりしていることとその方向ベクトルがあまり対立していないことからもわかります。
トトロの田舎はあくまでも都会人から見た田舎であり、その視点においてはの当の田舎者さえ部外者のように見えます。

当たり前かもしれませんが、田舎者と都会人の衝突を描いた作品ではありません。田舎の分化を描いたわけでもなく、頭でっかちな田舎のイメージ、つまり都会人のエコロジーとか死生観とかそういうものを描いているわけです。
それだからダメだというわけでもないのですが、こういう映画は軽薄な影響を人々に与えているだろうなという嫌な深読みを私はしてしまいます。
トトロの田舎はあくまでも自然であり、人ではないのですね。
「人類なんか滅んだほうが地級の為にはいい」とか言っちゃう人の作品ですからそういう作品であってもなんの不思議もありません。


自然あふれる環境。そこに入り込んでいく二人の子供。そして<ー進行の行き止まりには、二人の母親が待っています。

そして母親のもとから家に戻るときには、ー>進行になります。

終着点が母親と言っている映画でありまして、この少しばかり不可思議な世界は母親の比喩である、もしくは生き物にとっての母親とは神秘を宿した自然である、というメッセージがあるようです。
そして、それは『崖の上のポニョ』で露骨に提示されますが、ここでは林間学校の気楽なノリで語られるだけです。

アニメを通しての林間学校、そういう作品なのですが、

やはり、宮崎的な異界の設定がなされており、その中では「北枕」がちゃんと使われております。



メイがトトロの居場所に向かう時は −>方向で走るのですから、トトロと出会うときも −>向きであるべきと思うのですが、


トトロは −>向きで「北枕」で昼寝しています。


「北枕」とは画面進行方向の下流、日本映画では画面向かって左側を頭にして寝ている状態であり、


画面の流れとイメージ的にこの「北枕」からの起床はかちあうので、スムーズに起き上がることができないような気がしてしまいます。

それゆえ、もう起き上がれない重病人や死者が頭をこの方向に向けて寝ているところから「北枕」と私が命名した用語なのですが、

それ以外にどのような人物が「北枕」であるかというと、
ぐっすり眠っている人物
夢を見ている人物
妄想に浸っている人物
現実からずれた時間を生きている人物  などであり

「北枕」からそのまま起き上がる人物は、ゾンビ、もしくは幻の世界に入り込む人などであります。

画面は <ー方向で進行するものであり、たとえ移動がほとんどない映画とはいえ、時間の経過を端折るのが普通の映画ですから、どうしても画面に進行方向が生じてしまいます。
それが残像的イメージとして観客にはサブリミナル的に知覚されており、それにさからう起床シーンは見ていて不自然なものに思われるのでしょう。

別に「北枕」で寝ていてもいいのでしょうが、
例えば、ぐっすり眠っていてそれから朝日が登って目覚めたというシーンだとすると、
ぐっすり寝ている時はー>向き、
それから朝日のカットを挿入、
そして<ーのカットで目覚め、そのまま起床。

宮崎作品群では、「北枕」の解除の仕方は、このように普通なされます。
「北枕」にもっと深く抽象的な意味を持たせている場合は、朝日のかわりに、何らかの救済をほのめかすようなもののカットが挟まれます。


そういうのが普通なのですが、トトロは、「北枕」からそのまま起き上がります。
こういう起床の仕方はゾンビにありがちなものなのですが、トトロはよくよく考えると、妖怪なのでゾンビと似たようなものなのでしょう。


しかし、いくら異界の生き物とはいえ、トトロは軽々しくこのゾンビ起床をするわけではありません。

トトロは計4回子供たちの前に姿を現しますが、最初の3回は全部夢オチでも構わないような登場の仕方です。


一晩で大樹に育つも、翌朝起きたらちいさな芽に過ぎませんでしたから、トトロは子供の妄想と言って片付けてもまだ構いません。


空を飛ぶシーンは『ET』そっくりでしょう。

ただし4回目の登場ではゾンビ起床して、サツキのためにネコバスを手配してやりますが、そのネコバスでメイのとうもろこしを母親に届けるので、ちゃんとネコバスの存在トトロの存在に母親という証人が付いてしまいます。


もうこうなるとトトロの存在というのは、夢オチでは済まなくなるわけで、

となりのトトロ』は、トトロのゾンビ起床によって、子供の妄想を優しく包む自然の物語というリアリズムから、完全なファンタジーへ舵を切ったことになっているのです。


そのくらい、ゾンビ起床というのは、少なくとも宮崎作品では深い意味を持っていますし、彼の作品では、「北枕」に着目していれば、作品を見間違うことはないように思われます。

「北枕」がここまで重要なのは宮崎作品の特徴なのか?と言われますと、ほかの普通の実写映画も「北枕」の扱いにはこだわりますが、それでも宮崎作品はファンタジーである分だけ、リアリティとファンタジーの境界を示すことになりうる「北枕」の扱いには繊細であると私は考えております。

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